硝石とチリ硝石について

◆火薬の登場は人類史上の画期的な出来事であるが、いつ誰がどこで発明したか正確なところは分かっていない。ただ唐代後期の中国にすでに現れてあり、神仙思想下の錬丹術から出たことは間違いないと言われている。硝石(硝酸カリウム)・硫黄(または雄黄雌黄)・木炭(または油脂、蜜、瀝青などの炭化性有機物)を原料とする、いわゆる黒色火薬であった。

硝石は紀元前(戦国期)にすでに医薬として利用されており、温液を膿創の洗浄に用いた記録がある。古く「消石」と呼ばれ、その由来はさまざまな石を消化することが出来るからだという。漢代の「三十六水法」には、消石水が丹砂辰砂、雄黄、雲母石英など(いずれも長生薬として飲用された)を溶かすと載っている。実際これは硝酸カリウムの性質だが、必ずしも純粋な物質でなく、同種の土壌から得られる硝酸ナトリウム(チリ硝石)や硫酸ナトリウム(水和物はミラビル石(グラウバー塩))、硫酸マグネシウム(水和物はエプソム塩)などを含んでいた、あるいは時代によってこれらとの混同もあったと推測されている。四川、山西、山東あたりで多く生産されたが、産地によって組成が異なった。硝石もまた服すれば長生を得る薬とみなされた。衣服につければ寄生虫がみな溶けて、やはり長生を得るという。

陶弘景「本草経集注」(AD500年頃)に、真の消石は焼くと紫青色の焔を生じるとあり、これはカリウムの炎色反応を指すとみられる。消石を精製した物質は「芒消」と呼ばれた。
ちなみに唐代に日本に贈られて正倉院の薬物に入った「芒消」は純粋な硫酸マグネシウムであったが、おそらく本来の「芒消」よりも医薬効果の高い新しい製品が同じ名で呼ばれたものと解釈されている。
後代の李時珍「本草綱目」中の「消石」は硝酸カリウム、「芒消」は硫酸ナトリウム・10水和物(グラウバー塩)、また「朴消」はその粗製物を指し、この定義は現代まで踏襲されている。

◆このように中国では硝石や硫黄が医薬品として長い歴史を持ったが、その調製中に誤って燃焼・爆発を生じることがあったため、伏火の心得が示されている。裏を返せば積極的に発火をもたらす配合があり、晩唐期(9C末)には軍事利用が始まった。
初期の火薬は硝酸カリウム成分が低く爆発性に乏しかったため、持続的な燃焼を目的に火箭や火球などに使用された。元寇の際に日本軍が遭遇した「てつぱう」(鉄砲)はこの種の兵器だった。やがて燃焼速度を高めた火薬が作られて推進薬や爆薬に利用され、砲筒が工夫されていった。宋代には火薬を詰めた爆竹や、ネズミ花火のようなものが作られ、娯楽にも供された。

唐宋期には中央アジアを抜けるシルクロードは通行不能となっていたが、海路を伝って中東との往来があり、中国南部にはアラビア商人の居住区もあった。中国の医術や練丹術は彼らを通じて西方に伝わったと見られるが、硝石がイスラムやヨーロッパに知られるようになったのは13世紀の第二四半期以降と考えられている。遅くとも1240年にはイスラム圏で火薬原料として用いられていた。
「中国の雪」、「中国の塩」、「壁の雪」(壁土に吹いた白い塩を溶解・再結晶させて得られたため)などと呼ばれ、アラビア語でバルド barud の名称が与えられた。
そして14世紀にはスペインとアラビア人との戦争を通じてヨーロッパ圏に火薬と火器の製法が伝わり、以降ヨーロッパは黒色火薬や銃砲の製造技術を発展させてゆく。

◆硝石は土壌に含まれる含窒素有機物がバクテリア(硝化菌)の作用で硝化されて生じる。冬季に霜のように地表に現れるので中国では「地霜」と呼ばれた。天然産のほか、人や家畜の排せつ物、動物の死骸、腐敗性の植物質などを用いて、人為的に製造することも長く行われてきた。
水溶性のため、土壌面に生じた「塩」は雨が降ると溶けて散る。そこで普通は降雨の乏しい乾燥気候帯や、雨の当たらない場所(人家の床下や穴倉など)から採集した。中国内陸部のほか、エジプト、アラビア半島、イラン、インド、南ヨーロッパなどに天然の産地がある。北西ヨーロッパでは家畜小屋や人家からの回収が工夫された。(補記2)

古い民家の床下の(硝酸塩を含む)土を温かい湯に混ぜ、上澄みの溶液に(炭酸カリウムを含む)草木灰を加えて硝酸カリウム塩の溶液を作る。これを煮詰めて冷やすと硝石の結晶を生じる。再結晶法によって精製する(硝酸カリウムは温度によって大きく溶解度が変わる)。「古土法」という。
草木灰を水に混ぜて各種のアルカリ塩を抽出する技法は古代から知られたもので、この種の塩類をヘブライ語にネテル neter と呼んだが(ナトロン natron と同源)、後のヨーロッパでは硝石を指すようになり、ニター niter 、あるいはソルトピーター saltpeter と称した。

調達可能な硝石の多寡が利用可能な黒色火薬の量を決定したため、硫黄と共に重要な軍事物資として扱われた。
18世紀後半のヨーロッパでは主に安価なインド産の硝石が利用された。その頃イギリスがフランスを抑えてインド植民地支配を確立したのであるが、大陸でもイギリスと7年戦争(1756-1763)を争ったフランスは、インド産硝石が手に入らなくなったために講和を余儀なくされたと言われる。その後フランスは「硝石丘法」を展開して国内調達に力を入れた。これは含窒素有機物(木の葉、糞尿、塵芥等)を石灰や土に混ぜて通気のよい小屋の内部に山と積み、定期的に尿をかけて硝石が生じるのを待つ方法で、ナポレオン戦争遂行の原動力となった。

◆南米チリに莫大なチリ硝石の鉱床が発見されたのはその頃であった(1809年、cf. No.861)。海岸から40〜80キロほど内陸に入った砂漠に硝酸ナトリウムを平均30% (20〜75%)含んだ岩塩の島が、南北750キロにわたって帯状に点在する。地表から 1〜6mの深さの砂礫層中に、 0.2〜1m 厚さの鉱石層(カリーチェ)があり、ソーダ、カリ、マグネシウムの硝酸塩や硫酸塩、塩化物、及び少量のヨウ化物を交えて固結している。これを下層から発破をかけて採掘した。
チリ硝石は硝石ほどの爆発性を持たないので、硝石(硝酸カリウム)に変えて火薬原料とする。そのための硝石産業が南米に興った。

1830年になると米国やイギリス、フランスへ向けてチリ硝石が輸出された。これは火薬用ばかりでなく、肥料用にも重要な資源となってゆく。その頃の主産地はペルーのタラパカ地方だったが、製品の多くは南方のチリのバルパライソ(極楽谷の意)港を経由して(ホーン岬を回って)ヨーロッパに向ったため、チリ硝石と呼ばれた。クリミア戦争(1853〜1856)が起こると出荷量が飛躍的に伸び、取引価格もまた高値を維持した。
1860年代には高品位のカリーチェが乏しくなったが、精製法の改良で低品位鉱石が利用可能になった。戦争が終わると火薬需要は減ったが、肥料原料としての需要が(グアノと共に)高まっていた。「戦時の火薬、平時の肥料」と言われる。
ダイナマイトが発明されると(1867)、黒色火薬を急速に置き換えた。以後チリ硝石はダイナマイト製造用の硝酸の原料として必要とされる。
普仏戦争(1870〜1871)がまた需要を高め、1871年にはタラパカ地方の硝石産地とイキケ港を結ぶ硝石鉄道が開通した。やがてボリビア領アントファガスタやチリ領タルタルでも採掘が始まった。資源権益を巡って南米諸国の間で太平洋戦争(別名、硝石戦争:1879-1884)が起こり、その結果、チリはタラパカ地方やアントファガスタ地方を領有し、名実ともにチリ硝石の天下が始まった。チリの硝石産業は発展し、ブームは第一次大戦頃まで続いた。
1880年に年間22万トンだった輸出量は1913年には277万トンに達し、輸出高の8割を占めた。1890年頃から1929年の世界恐慌まで、チリの歳入の半ばは硝石の輸出税で賄われた。チリ硝石は「白い金」と呼ばれた。
一方、ヨーロッパでは一次大戦頃から工業的にアンモニアが合成され始めた。チリ硝石資源の枯渇が懸念される中、空気中の窒素を固定する方法が開発されたのである。1920年代までチリ硝石は依然高い需要を維持したが、その後は資源としての重要性が下がった。

チリでは現在も肥料用にチリ硝石が採掘されているが、繁栄はすでに過去のもので、国家歳入の6割を支えているのは銅産である。世界生産の約30%を占め、中国に次ぐ。
とはいえチリ硝石の精製副産物として得られるヨードは年産2万トンに達し、世界生産の3分の2を占めている(ちなみに二位は日本)。硝石ブーム中の 1901年のチリのヨード生産は 2,460トンだったから、その10倍近い量である。かつてヨードは海藻を燃やした灰から抽出されるのが普通だったが、1870年代から20世紀半ばにかけては、事実上チリ硝石がほぼ唯一のヨード供給源になった。その後、日本や米国でガス井に湧く鹹水からも抽出されるようになる。

 

補記:チリ硝石の大鉱床が発見された当初は、硝酸ナトリウム成分を抽出するには品位50%程度の高品位鉱が必要だったが、精製法が改良されて、19世紀後半には品位 15~20%程度のものまで利用可能になった。
さらに改良が進んで、一次大戦頃には 7%までの低品位鉱も利用可能になった。このレベルの鉱石に含まれるチリ硝石の埋蔵量は2億トンと見積もられている(窒素分3,300万トンに相当)。今日、鉱石資源からの硝酸ナトリウム精製高は年産約50万トンで、うち45万トンがチリ産。従って埋蔵量としては400年分残っているということになる。
一方、固定窒素の世界生産量に占めるチリ硝石の比率は、アンモニア合成法の実用化によって 1913-14年を境に独占状態が崩れ、1950年までに15%程度に下がった。そして今日では 0.1%を切っている(アンモニア合成による窒素生産量は年産約1億トン)。つまり今日の世界の窒素消費をすべてチリ硝石で賄わねばならないとすると、資源はほんの数ケ月で枯渇してしまうのである。
なお固定窒素の85%は肥料用で、急増する人類の食糧生産を支えている。

ちなみに1900年頃には世界の窒素肥料の3分の2がチリ硝石に依存しており、アンモニア合成法を実用化したドイツは、1913年当時、生産されたチリ硝石の3分の1を買っていた。しかし1930年代には早くも合成された固定窒素が需要の半ばを賄うようになった。
ドイツのシュタッスフルトにはカリ岩塩の大鉱床があり、19世紀半ばに発見された。これとチリ硝石とを使って、硝酸カリウム(硝石)が製造され、世界中に輸出された。

補記2:中央アジアの塩水湖、とくにカスピ海のカラボガス湾では冬季に芒硝が数百トンも雪のように降り、岸に打ち上げられる、とフェルスマンは書いている。この雪は夏には湾の暖かい水に溶けてなくなってしまう、と。

ギャラリー No.862 チリ硝石・イキケ石

 

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