明治時代の有名鉱物 −ひま話(2001.12.23)より


この間、図書館で「鑛物界之現象」(以下、鑛の字は鉱と記す)という本を見つけた。深紅色のハードカバーに、ケンタッキー州マンモス洞の絵と ”PHENOMENA OF MINERAL KINGDOM”の文字とが銀箔で型押ししてある。前篇、後篇の2分冊。奥付けは、明治39年1月発行(1906)、明治42年10月訂正8版発行となっているから、およそ一世紀前に書かれたものらしい。ほんの4年で版を8回重ねており、わりとよく売れたのだろう。著者は安東伊三次郎氏という。

私は、こんな本があることさえ知らなかったので(どこかで聞いて忘れているかも)、氏の経歴について何も知らない。ただ著書の肩書きは陸軍教授となっている。他に「生物界之現象」(動物篇、植物篇)、「最近博物教科書」、「中学校生理衛生学教科書」の作があり、おそらく百般に通じた博物学者だったのではないかと想像する。読めば興趣尽きない好著で、氏の鉱物に関する造詣が一通りでないこと、かつ諸産業と結びついた実際的なものだったことが窺われる。

今回のひま話は、この本の中から「学術上著名なる日本産鉱物」という章を取り上げて、当時の鉱物趣味を巡る想像を、例によってゆるゆる連ねてみたい。
明治というと、維新政府の下で殖産興業、富国強兵に余念のなかった時代である。日本の鉱業は伝統的な採鉱法から脱却、お雇い外国人技術者の指導で機械化・科学的(鉱物学的)手法の導入が進み、年々歳々発展を遂げて、旧に数倍する規模に膨れ上がったというイメージがある。有用な鉱産物を求めて各地で鉱山が切り開かれ、そうして美しい標本がどんどん産出しただろうと…。
また欧米から鉱物学がもたらされ、本邦の学者たちが、それぞれの鉱物に銀星石とか白雲石(ドロマイト)とか黝銅鉱(今でいう四面銅鉱、黝とは黒と白の中間色Grayのこと)とか風信子鉱(ジルコン)とか、瀟洒な和名を付与していった時期だろうと…。
実際そうした生成発展の清新な息吹は、この本の中にも随所にひそんでいる気がする。逆にまた、いくつかの鉱物について、外国産鉱石があまりに安いので日本での採掘は採算に合わないとの記述もあり、明治末にはすでに鉱業衰退の兆しがあったのか、などと妙に宿命的な気分になったりする。

さて肝心の、趣味としての鉱物はどうだったかというと、これはどうも、まだこれからといった感触である。そもそも、本の序文はこんな言葉で始まっている。(以下、緑色の文字は引用文)

世人の多くは、鉱物を以って人世に対する関係はなはだ少なきものとなし、その研究を以って最も乾燥無味なるものと思惟す。これ斯学は、近時すこぶる著しき発達をなせるに係らず、未だ十分に普及せざるがためなるべし。
本書は、主として我が国に産する鉱物につきて、その種類及び鑑定法を説き、著名なる事実を解釈し、かつ世界各国における鉱産物利用の現況を示し、以って斯学の研究がいかに有趣にしてまた緊要なるかを知らしめんことを期するものにして、斯学に関する思想の喚起と普及とに多少の光明を添うることを得れば幸いなり。…

鉱物の利用は生活上たいへん重要なもので、それに関する学問もまた然りだけども、世間の人はこの分野に全く面白さを見出しておられない、しかしこの本を読めば、きっと鉱物の大切さに気づき、鉱物界の諸現象に興味を感じてもらえるだろう、と著者は期待しているのである。その希望は矢継ぎ早の増刷からみて、おそらく幾分なりと叶えられたことだろうと信じたい。
ただ一世紀近く経った1990年に、草思社の「楽しい鉱物学」が刊行されたとき、著者の堀秀道氏は、安東氏とそっくり同じ嘆きを訴えられている。おそらく、大正以降、二度の世界大戦による世情の変化、また鉱脈の枯渇と採算悪化によって国内の鉱山が衰微の一途を辿る中で、いったん培われた鉱物に対する世間の関心は再び失われていったのだろう。

とはいえ、その間、日本の鉱物学(あるいは鉱物趣味)が眠っていたと決めつけるのは早計である。たとえば、安東氏によれば、当時(1906年頃)、世界に産出の知られた鉱物は1000余種、うち日本に産するもの約150種という。降って、草下英明氏の「鉱物採集フィールドガイド」(1982)には、日本産鉱物843種とある。この80年間に学者たちの研究、アマチュアによるフィールドワークが盛んに行われ、新産種が続々発見されたことは疑いない。さらに20年経った現在、世界の鉱物は4000種を数え、日本では1000種以上が確認されているとのことだ。本邦を原産地とする鉱物も多い。(※2020年11月のIMA 種名リストには約 5,650種が示されている。)
また鉱物趣味の普及について言えば、「楽しい鉱物図鑑2」(1997)で、堀氏はこう書いておられる。
「約10年前に前著『楽しい鉱物学』を書き、東京国際ミネラル・フェアや同好会を組織した当時は、「鉱物趣味に市民権を」がスローガンだったが、現在早くも一応の目標が達成されつつある。」
今年は商業誌も発売された。インターネットでは、鉱物趣味のサイトが花盛り。本邦鉱物専門のサイトだけでも十指に余る。安東氏もきっと遠い空から微笑んでおられることだろう。

ちなみに先頃、東京で展示会のあった、和田維四郎コレクションをまとめた「日本鉱物誌」の初版は明治37年(1904)に、改訂版にあたる「本邦鉱物標本」は明治40年に刊行されている。「鉱物界之現象」が書かれた時代は、まさに日本鉱物趣味の啓蒙期だったといえるかもしれない。

さて、「学術上著名なる日本産鉱物」は、この本の第一章にあたる。日本に産する鉱物のうち、まずは広く海外にまで知られた名品を紹介しようという企画だ。これは、そのまま当時の日本産鉱物番付でもあろう。その面々は次の通り。

1.輝安鉱
2.水晶 
3.黄玉石 
4.自然砒 
5.ライン鉱 
6.菫青石 
7番目は趣きを変え、世界でもまれな鉱物で日本に産するもの、すなわち、
フェルグソン石、苗木石、マチルダ鉱、シルヴァニア鉱、ペッツ鉱をあげている。
8.讃岐石 
9.無人岩 

以下、個別に見てゆくと、

1の輝安鉱は、市ノ川産の柱状結晶。世界にもっともよく知られた日本の鉱物標本である。いわく、
その結晶は甚だしく晶面の種類に富み、その数の多さは鉱物界中無比にして、既に知られたるもの45種の外、ダーナ(Dana)氏の発見によりて更に40種を増加し、オーストリア人クレンネル氏によって更に3種を付加、現今総計88種を算するに至れり…
ついぞ数えたこともなかったが、そんなに沢山、結晶面をもっていたのだね。

今を隔たること200余年前、延寶年間の発見にかかり、明治15、6年〜20年の交盛にこれを産出したが、惜しむべし、我が邦人はその希品なるを知らず、ために続々これを海外に流出せしめ、現今にては欧米諸国の博物館等には殆どこれを蔵せざるなきに至りしに係らず、我が国内には却って美晶の存すること少なきに至れり。その上、市ノ川は今や全く昔日の観を失い、わずかに微細な小結晶を見るに過ぎず、探鉱の業は遂に閉止せり…

一世紀も前に、今の私たちと同じような嘆きを洩らされているのに、つい苦笑してしまう。私たちは、その頃ならまだ上モノがいくらもあっただろう、と考えがちだが、素晴らしい標本の産出期間は、それぞれ、えてして短い花の命なのだろう。
三菱コレクションには素晴らしい標本(元は和田博士のコレクション)が残っている。(本ページ末尾にリンクあり)

cf. No.71    No.642 

2の水晶は、いわゆる日本式双晶のこと。平板(ひらばん)の結晶が、蝶の羽のように連なったり(バタフライ・ツイン)、軍配型に開いたもので、俗に夫婦石(めおといし)と称する。 cf. No.703

かかる双晶は、諸外国にはこれを産すること極めて稀なれども、我が国にては今を隔たること20余年前、ドイツ人モーニッケ氏初めてこれを甲斐国倉澤に得しより、以来続々各地に発見せられ、現今にては同国乙女坂、八幡、肥前国奈留島、豊後国尾平等の諸地にこれを産することを知れり。…
さらに、我が国に多くこれを産すといえども、玉人(加工師)がその結晶の板状をなせるを便とし、これを以ってレンズを製すること多きは、世界の奇品を暴滅するの憾なきにあらず。宜しく、多く之を保存して後の研究に資すべきなり…

これまた、今の私たちの言葉をそっくり聞くような心地がする。倉澤・乙女は金峰山参詣古道の一つ、東口と呼ばれた牧丘杣口筋から山に入って今の乙女湖を大弛峠に向かって北に越えたあたり(南口の御岳古道からも黒平を越えて行ける)、荒川を挟んだ谷の両斜面を掘った鉱山で、山梨県ではもっぱらこのエリアでのみ日本式双晶を出した。(※「日本の鉱物」(成美堂 1994)に軍配形の標本が少し北の黒平水晶峠産として紹介されているが、益富「鉱物」(1974)では同じものを乙女鉱山産としている。黒平では昭和30年頃に日本式双晶が出た。) 明治中頃はいくらでも採れたようだが、評判が出て値が上がり、やがて乏しくなった。大正に入る頃には山梨産の(良質の)水晶自体が商業的に枯渇を迎えていた。日本式双晶の標本は今は海外産が安価でよく出回っているが、乙女鉱山産には大変なプレミアがつく。
奈留島の産地は平成に入る頃まで採集可能だったが、水晶ブームがきて販売目的で乱採集する人が後を絶たず、一人で数百個も採ってゆく人もあって地形が様変わり、とうとう採集禁止になってしまった。こうした現状を思うと、先人の警鐘も、鉱物賛仰も、却って欲望を煽る追い風となるばかりだったのかもしれない。お金になると知っていて手を出さないのは、よほど出来た方だけである。

夫婦石がドイツで紹介されたのは 1874年(明治7年)頃という。和田博士の日本鉱物誌(1904/明37)によると、モーニッケ氏の標本は日本産として函館で購入したのを本国に持ち帰り、ラート博士が研究した。和田自身は甲斐産として得た1ケを1884年/明17にドイツに携帯して研究したことがあり、1886年には東京の商店で巨晶を見つけて大学で購入した。しかし「多数に吾人の耳目に触るるに至りしは最近 10年間のこと」と書いているから、頻りと出回るようになったのは明治20年代中頃だったようだ。
日本鉱物誌にはこのタイプの双晶は傾軸式双晶と記されている。日本式 Japanese twin law と言い出したのは V.ゴールドシュミットで 1905年(明治38年)とされる。この頃の乙女鉱山は水晶そっちのけでタングステン鉱(重石鉱)を掘って繁盛していた。随伴して出る水晶は折からの産量減のため甲府の水晶細工店がのどから手が出るほど欲しがったものだが、乙女では相場に関わらず買い手の言い値で売り投げた。とはいえ大勢の坑夫が渡り集まった鉱山の空気は荒々しく、用心のためピストルを懐にしのばせて乗り込む仲買人もあったという。

cf. No.813 追記

3の黄玉石は、トパーズのこと。美濃国、近江国に多く産出して、その名は世に高い。明治25年、シカゴの世界博覧会に、市ノ川の輝安鉱とともに苗木地方の巨大トパーズが200個出品されたというから、当時はいくらでも採れたのだろう。
美濃国恵那郡のトパーズは、河床や田畑の地下数尺に埋まっており、近江国の田ノ上山には、鬼御影(ペグマタイトのこと)の脈中にあったものが母岩の分解によって露出し、土砂中に水晶、雲母とともに共存している。その産すこぶる多く、値段は安い。往々直径3寸5分(10センチくらい?)に達する巨晶が採れた、という。
いい時代だった…(ああ、ついボヤいてしまった)。
ちなみに明治初期ナウマンは田ノ上産の黄玉を猫晶(びょうしょう)と呼んだという。

長島父子によれば、シカゴに出品されたトパーズはいずれも岐阜県福岡村や苗木の川流れのもので、結晶面は摩耗しているが内部は無色透明無傷の宝石質、径5cm・高さ6cm位あったという。1ケ5〜25円で売れた。苗木はトパーズ産地として一躍有名になった。その後、同県蛭川村からも美晶が出て、パリの博覧会に出品されて 3万円で売れたという。
近江産のトパーズは和田維四郎「本邦金石略誌全」(明治11年)に、3、4年前に初めて近江で発見されたと記され、当時は粟太郡大谷山に多産し、また伊勢三重郡水沢村と美濃恵那郡中津川村にも産出があったが、美濃産は「唯一塊のみ」知られた。それから10年ほどの間に、輸出できるほどのトパーズが美濃でも採れたことになる。近江産は明治10年の内国勧業博覧会で紹介されたらしい。

4の自然砒は、堀氏の「楽しい鉱物図鑑」にも、明治年間に福井県赤谷鉱山から奇妙な形の自然砒が産出して、「金米糖石」と呼ばれた、とある通り。安東氏によれば、直径およそ5分ばかりの顆粒で、これを破ると中央に1分ほどの小粒があり、この小粒は通常2〜3層の放散状組織をなし、外面は斜方6面体の小結晶が多数群生している。世界各国の鉱物中未だかつてその例を見ない、というのだから、日本特産の名に恥じない鉱物といえよう。
俗に蝿石とも呼ぶそうだ。なぜ蝿石なのか、ご存知の方があったらご教示くだされたく。 cf. No.768

5番目は、ライン鉱。現在ではほとんど流通していない(採れない)標本である。
ライン鉱(Reinite)は、明治12年、リューデッケ氏によりて初めて世に公にせられ、日本特有の新鉱物としてその名高く、東西に喧伝せられたるものなり。そも本鉱発見の由来は、彼の有名なる独人ライン氏本邦遊歴の際、甲斐国金峯山にてわずかに一個を得て帰りしに始まり、後リューデッケ及びフリッチュの二氏これを研究して新鉱物と認定し、フリッチュ氏はライン氏の名に因みてこれにライニットの名を与えたるなり。
と由来が記されている。
爾後20余年間、我が国の学者が百万力を尽くして捜索せしに係らず、更にその姿を顕わさざりしが、明治32年に及び、ついに再び甲斐国巨摩郡乙女坂及び東山梨郡倉澤の水晶坑において多く発見せられ、ここにようやく本性を明らかにせらるるに至れり。

ライン鉱は鉱物種としては鉄重石にあたり、結晶は灰重石の形をとどめたものである。今風にいうと、灰重石後の鉄重石。世界的に珍しい仮晶だ(※と思っていたが中国などに沢山出るらしい)。再発見の経緯は No.196に記す。

6.菫青石
故菊地博士及びオーストリア人フーザック氏が研究せられ、これより有名になったとある。
菊地博士が研究したのは渡良瀬川地方に産するもので、いわゆる桜石と同様の形状を示す菫青石(とその風化物)だったらしい(ギャラリー No.176)。一方、フーザック氏が取り組んだのは浅間山の菫青石だった。
同火山より噴出したる白色緻密なる岩石中に菫紫色の小斑点となりて多く存在せるものにして、同山の中腹以下殊にその南西の方面に多し。今を距る20余年前独人ドラーシェ氏の初めて採集したるものなり。

こうした文章を読んでいると、明治の頃の鉱物採集はヨーロッパ人によって開拓され、彼らの尽力で特色ある本邦鉱物の名が世界に広められ、その後、日本人にもおいおい注目されるようになったのだなということがわかる。

フォン・ドラーシェが浅間山でゼノリス(捕獲岩)を採集したのは 1877年で、これが日本の火山岩に伴うゼノリス研究の嚆矢という。ゼノリスはウィーンのフザーク氏に渡り、彼はその中に含まれる菫青石に気づいて詳しい報告をなした(1883年)。以来日本では多くの火山学者がこの美しい石を研究し、岩手山(1896)、郷路山(1894)、駒ヶ岳(1908)、二上山(1910)、桜島などにも産出が報告された。桜島産は 1916年に小藤博士がセラミサイト中のものを示した。
益富「原色岩石図鑑」(1987)に浅間山産のセラミサイト(含大隅石)が示されて、「かつてフザークが菫青石としたものであるが、現在は大隅石に訂正された」と述べられている。これはやや端折った説明と思われる。
大隅石は 1956年に鹿児島県垂水から新鉱物として報告された種で、従前、菫青石と考えられていた。同図鑑によると、1941年に桜島東対岸の垂水町海潟を通行中の益富博士が偶然発見したもので、帰宅後に検鏡すると一軸性を示すので、おかしな菫青石だぐらいに思ったが、戦時中でもありそのまま放念したという。その後、都城(みやしろ)博士の研究で新種と判明したが、「日本で発見された新鉱物としては最も普通に産する鉱物のひとつ」(日本の鉱物 1994)らしい。科博の「鉱物観察ガイド」(2008)は浅間火山の捕獲岩中のものを菫青石と紹介している。
ちなみに都城博士は 1954年に菫青石の高温形態であるインド石 Indialite (α菫青石)を自然物に見つけて新種として報告した(インド、ビハール州ボカロ炭田産)。

7番目以下も、同じようなことだから簡単に紹介しておく。フェルグソン石は美濃国苗木近傍に産出する。まれな鉱物だが、同地方には多量にある。陶磁器の黄色釉薬として賞用されるため、値段は安くない。
苗木石は苗木近傍でフェルグソン石に伴って産出する。近時研究の結果、一新鉱物なることを発見せられ、和田氏は産地の名に因みてこれに苗木石と命名せり。(備考:苗木石は希元素を含むジルコンの変種で独立種でない) cf.No.619 補記
上記3の黄玉石を(市ノ川の輝安鉱と共に)シカゴの博覧会に出した中津川出身の高木勘兵衛(トパーズ勘兵衛)は産地で出る砂鉄に似た黒色の鉱物を和田博士らに示して錫石であることを知った。土地の人らと採掘権を得て、明治20年頃に三井物産に転売した。福岡村郡上ケ島に精錬所が作られて付近の砂鉱を製錬した。選鉱滓が東京の金石舎(勘兵衛が始めた宝石・標本店)で販売され、その中からフェルグソン石が報告された。土地の人が「ねずみのくそ石」と呼んで瀬戸地方に釉薬顔料として流していたもので、はじめルチルと思われたがフェルグソン石と分かり、明治32年の神保「日本鉱物略記」に記載された。37年に田村博士が化学分析を行った。「本邦産ウラン鉱物第一号」という。この時の分析でトロゴム石(トール・ゴム石)に類似の未知の放射性鉱物が発見され、和田「日本鉱物誌」(明治37年)に苗木石の名で報告された。土地では緑星石、菊花石などと呼ばれていた。翌38年にジルコンの変種と判定された。

マチルダ鉱、シルバニア鉱、ペッツ鉱は特記することがない。いずれも希産の鉱物だ。ちなみに原文では、マチルヂット、シルバニット、ペチットと記されている(多分、ドイツ語読みだろう)。

8の讃岐石は、サヌカイト、俗にカンカン石と呼ばれる石で、讃岐地方に出る。叩くとカンカン音がする。cf. No.689 補記 響岩
独人ワインシェンク氏これを一新種と認め、産地の名に因みてSanukiteの名を命じたり。

最後の無人岩は、ガラス質安山岩の一種だそうだ。「櫻井コレクションの魅力」によれば、玄武岩の一種の斜頑火輝石。原色鉱物岩石検索図鑑によれば、小笠原父島産の古銅輝石安山岩で、杏仁状(きょうにんじょう)構造が著しく、輝沸石その他を含むもの。益富「原色岩石図鑑」は、古銅輝石・普通輝石・かんらん石の斑晶を含むが斜長石を含まず、石基が玻璃質の世界的に珍しい岩石と述べている。斑晶部分が風化して海岸に打ち寄せられたものが、壁の化粧材となる「鶯砂」。
故菊地博士初めてこれを小笠原諸島にて採集し、ぺーテルゼン氏これを新種と認め、ボニンなる島名に因みてBoninitの名を与えたり。これまた他国にその産を聞かざる所とす。
(Bonin Island は小笠原島の英名:江戸時代「無人島:ぶにんじま」と呼ばれたことから)

以上、こうして並べて見ると、改めて昔の日本の鉱産の豊かさが偲ばれる。また今、日本のコレクターが国産鉱物番付を作っても、そんなに顔ぶれに変化がないだろうという気もする(無人岩というのは、私は聞いたことがないのだけども)。ただ当然ながら、後年になって初めて産出した石はここに登場していない。たとえば昭和初期に再発見される糸魚川のひすいは、まだその噂すら聞かない。私なら、真っ先に名前を挙げたいところだが。

cf. シルバー生野の三菱鉱物コレクション

付記:日本の近代鉱物学の開祖は、和田維四郎博士だといわれている。氏は明治9年に「金石学」を、明治11年に「本邦金石略誌」を著した。中央学界寄りの視点で見た日本鉱物学の進歩は、「日本鉱物誌(第三版)」(−昭和22年−伊藤貞市、櫻井欽一新編)">緒言に詳しい。参考のため、次のページに引用しておく。

付記2:鑛物(鉱物)の鑛は、もとは中国語の礦にある。本草綱目(銅鉱石)によると、礦とはあらいもの粗悪なもののことで、五金いずれも粗石に含まれているものだから、その金属を含有する粗石を礦という。
漢語林(大修館)で礦を引くと、「あらがね。掘り出したままで、まだ精錬しない金・銀・銅・鉄などの鉱石。=鉱(鑛)」とある。鑛は礦の異体字。鉱はこれらの書きかえ字。

※ 最終加筆 2021.7.18


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