647.自然アンチモン Native Antimony (スペイン産) |
日本聖書協会訳の聖書列王紀下9-30
に、「エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いてその目を塗り、髪を飾って窓から望み見た…」と記された個所がある。このテキストは
1600年前後に成立したデューイー版では、「…イゼベルは顔をスティビック石で塗り…」、とあり、スペイン語の現代訳では「アンチモンで眼を塗り」と訳されているそうだ。
同様にエレミア書4-30
「荒らされた女よ、あなたが紅の着物をき、金の飾りで身をよそおい、目を塗って大きくするのは、なんのためか」とある箇所も、デューイー版、スペイン語現代訳でそれぞれ、スティビック石、アンチモンと具体的に化粧品名が示されている。ヘブライ語でプーク(puk)と指されるこの眼化粧は、(少なくとも17世紀初には)スティビック石=輝安鉱だと解釈されたわけだ。遠国から輸入するほか手に入らなかったため、化粧料に用いるさまざまな鉱物顔料の中でももっとも高価な成分だったという。
この訳には疑義も示されているが、眉墨に硫化アンチモンを用いる風習は、実際、ギリシャ・ローマを通じて維持された伝統であって、中東〜中央アジアで広く用いられる コール/コホル kohl
(色をつけるの意)と呼ばれる眉墨には今でも輝安鉱を混ぜた粉末が使われるという(方鉛鉱の粉末や有機系の黒色染料も用いられる。ちなみに古代エジプト人は方鉛鉱と輝安鉱を区別せずに(出来ずに)用いたようである)(付記6)。
エーベルス(1837-1898)の医学パピルス(BC16C)には輝安鉱を指すとみられる語(スティミ
stimi )が何度も出てくる。
一方金属アンチモンだが、古代エジプトの遺跡から硫化アンチモンの眉墨やアンチモンと鉛を成分に持つ黄色ガラスに加えて、金属質の数珠玉が出ている。ただその利用はむしろ例外的だという。
またメソポタミアのテルロー遺跡からは金属アンチモンの花瓶らしき器が出土している。この器を分析したベルテロ(1827-1907)は、痕跡量の鉄を含むほぼ純粋なアンチモンであることを確認し、古代カルデア人は金属アンチモンを知っていたと結論した。
しかし後世のギリシャ人やローマ人は、この黒灰色の金属がどうすれば得られるか知っていたとしても、ほかの似た色の金属と区別することが出来なかったらしい。プリニウスやディオコリデスは、これを鉛の一種、熱し過ぎると溶け出してしまう鉛、として記述したと考えられている(付記5参照。なお、プリニウスが火によって得られるとした「2種類の鉛」は、鉛と錫を指すとの説もある)。そしておそらく中世期を経たヨーロッパ人は金属アンチモンに関する知識をすっかり失っていた。
ヨーロッパ世界で初めてアンチモンの分離法を示した書物は、1540年にヴァノッキオ・ビリングチオ(1480〜1539)が書いた
「火工術」(De la pirotechnia)
だという。アグリコラは「発掘物の本性について」の中で、「スティビウムはるつぼ中で精錬されると、著述家たちが鉛に認めているような、本物の金属としての資格を十分に持つ。精錬の際、ある量を錫に加えると、書籍商の合金が製造され、これから書物を印刷する者たちが使用する活字がつくられる」と書いている。
そして金属アンチモンの調製法を示したのが、トルデンの「アンチモンの凱旋車」である。出版されたのは1604年だが、その主張に従えば、ベネディクト派の僧侶、筆名バシリウス・ヴァレンティヌスが1450年になした書を編纂したものだ。16世紀には金属アンチモンの存在は明白であったわけだ。(付記1参照)
ここでアンチモンの語源だが、ギリシャ語やアラビア語に遡るといわれるが、はっきりしたことは分からない。
ギリシャ語説は、アンチ(〜でない)+モノス(単独の)に由来するといい、自然界では通常化合物(例えば硫化物の輝安鉱)として産することによる、との説明がある。
しかしこれはアンチモンの語が18世紀頃まで輝安鉱を指していたことを無視する点で眉唾である。単離したアンチモンはアンチモン・レグルス(金属質)と呼ばれて区別されていた(ちなみに、純粋な砒素は「アルセニクのレグルス」であり、かつて不完全な錫とみなされていたビスマスの純粋物は「錫のレグルス」と呼ばれた
cf.No.641 注1)。(付記2参照)
別の説明として、アンチモンが水銀と同様に合金となりやすい性質を持つこと(〜単独でない)を指したのが語源ともいい、こちらの方がまだ説明としていいようである。
また俗説に「ある修道会で豚にアンチモンを与えたところ、豚がよく育った(その毒性によって駆虫効果があったらしい)ので、栄養失調の修道士(モンク)にも与えてみたが、あにはからんや僧は死んでしまった。そのためアンチ・モンク(アンティ・モイーネ)と呼ばれるようになった」という話もあるが、後づけのトンチ的付会だろう。ついでに言うと、歴史的にアンチ・モンクにふさわしいのはむしろ砒素かと思われる。
なおフェルスマンは、修道僧の精神に悪影響を及ぼすという理由で反修道僧という言葉から名づけられた、と上に類似の説を紹介する一方、アンチモン(輝安鉱)はその針状の結晶が複雑な植物の花に似ていることから中世期にアンチモニウムと名づけられた、と書いている。そのもとの植物とは何か、私は言うことが出来ない。
アラビア語起源説は、輝安鉱を指すアラビア語 al-athmud
アル・アッタムドがヨーロッパで転化してアンチモン/アンチモニウムになったというものである。またやはり輝安鉱を指す
mesdemet
メスデメットは、古代エジプトの語メセデム mśdmt;
に由来し、ギリシャ語のスティミstimi
の語源でもあるとみられているが、ここからスティビウムの語が出たという。
アラビア世界で輝安鉱が知られていたことは疑いないが、金属アンチモンについてはよく分からない。錬金術の父ジャビール・イブン・ハイヤーム(8世紀)は金属アンチモンをよく知っていたというが、証拠となる文献が何で、その書がヨーロッパに紹介されたのかどうかがちっともはっきりしない。
自然界で金属アンチモンが見出され、記録されたのは、ヨーロッパでは1748年のことで、スウェーデンの化学者(鉱山技師)アントン・フォン・スヴァブ(1703-1768)が、同国ヴェストマンランド地方のサーラ銀山から得たものだった。彼はこの鉱山で採れる「砒素パイライト
arsenical pyrite」 が、自然アンチモンであることをつきとめた。(余談だがスヴァブは当時スウェーデンの宝と称賛された科学者で、珍しい蛍光鉱物
Svabite に名を残している)
その後はスウェーデン外でもいくつかの産地で「石英質母岩中に」自然アンチモンが見出されるようになった。
自然アンチモンは擬似立方晶または板状の結晶をなすが稀、粒状〜葉片状のへき開を示す塊状で産するのが普通である。明るい錫白色で、きらきらとよく光り、展性がなく脆い。ろうそくの火に熔ける。表面には酸化物であるバレンチン鉱などがふいていることが多い。
熱水脈として、しばしば安砒鉱(付記3)などの砒化物や輝安鉱などの硫化物、ときには銀鉱を伴って産する。たいていの環境条件で硫化物を形成する傾向があり、自然アンチモンはむしろ珍しいが、カリフォルニアのカーン郡トム・ムーア鉱山では150kg
の大塊が見つかっている。輝安鉱は一般に低温生成物と考えられ、これを伴う場合はまた辰砂、鶏冠石などの低温生成鉱物を伴うこともある。
アンチモンは漢字で表記すると安質母尼で、アンチモニーの当て字だと思う。字面はなんだかおどろしく、錬金術めいた香りが漂う気がする。尼になった心きよらでやさしき母上の秘密の薬物。
付記1:後にアメリカ大統領となるフーバー夫妻が英訳した「デ・レ・メタリカ」の脚注に、ヴァレンティヌスに関するコメントがある。
「バジル・バレンタインは一般にいくつかの錬金術書の著者として知られている。それらの書物が出版されたのは17世紀初以降のことである。実際に彼自身が書いたと考えられるのは、「アンチモンの凱旋車」1冊だけで、成立は1350年以降さまざまな説があるが、15世紀末から16世紀初より早いとは考えられない。この書物は、硫酸と塩酸、アンチモン硫化物を用いた金及び銀の分離、アンチモン硫化物からの金属アンチモンの還元、鉄を用いて硫酸塩から銅を沈殿させる方法、さまざまなアンチモン塩類の発見に関して初めて記述したものとされている。
バレンタインに帰される書物の内容は、その成立年代以前にすでに記述され、いずれもよく知られていた事柄であった。我々(フーバー)は、それゆえ、この著者が冶金学の歴史に真に貢献したといえるかどうか疑わしいと思っている。」
またC.G.ユングは、ヴァレンティヌスは、パラケルスス(1493/94-1541)のアルケウス Archeus(宇宙霊)の概念、星辰と四大霊に関する説を受け継いでいる、と指摘している。
付記2:アンチモンが元素(またはレグルス/金属質)を指す語として公に用いられたのは、1787年にモルヴォーがまとめた新命名法が初めてだという。これはラボアジェの親友ビュケがアンチモンの語をその金属質に用いるよう主張したことを受けたものらしい。(元素記号 Sb はスティビウムに由来し、19世紀にスウェーデンのベルセリウス(1779〜1848)が採用した)
付記3:アンチモンの砒化物(AsSb)はアレモンタイト Allemontite と呼ばれたが、これはほかの砒化物やアンチモン鉱物との混合物であった。現在(AsSb)の鉱物はスティブアルセン(安砒鉱) stibarsen と呼ばれている。アレモンタイトの名は、バレンチン鉱の原産地、フランス・ローヌアルプスのアレモンに因む。
付記4:フェルスマンは、アンチモンや砒素は年代の新しい若い地層に見出されると言っている。
付記5:プリニウスの博物誌に、「同じ銀山から石化した泡と表現すべきものが見つかる。不透明で白い輝きがある。スティミ、スティビ、アラバストルム、ラルバシスなどと呼ばれている。2種類あってオスとメスに分かれる」とあり、また、スティミを「牛糞を塗った炉の中で焼き、母乳で焼き戻した後、雨水を加えて乳鉢で砕く。この濁った液体を銅製の容器に入れて、ソーダで精製する。…乳鉢の底の沈殿には多量の鉛が入っていると考えられて、捨てられる。容器中の濁った液は布をかぶせて一晩おいた後、沈殿を取り出して天日で干し、固形物とする。布をかぶせて少し湿気が残るようにする。これを再び乳鉢でひいて小さな板を作る。この過程で大切なのは鉛にならないように焙焼を加減することである。」と述べている。この沈殿物はしっくいに混ぜて眼のこう薬に用いられた。捨てられる「鉛」は実際には牛糞によって酸化物が部分的に還元されて生じた金属アンチモン(レグルス)である、と言われている。
付記6:コール(kohl/ Cohol)は、アラビアでは輝安鉱をすり潰してコリリンという液体に混ぜて化粧品にしたことに由来する。この化粧品はアルコール(アル・クフル)と呼ばれた。後にヨーロッパではブドウ酒を蒸留して得た酒の主要成分がアルコールと呼ばれ、バラなどの花から香気成分を抽出するのに用いられた。14世紀、ルペスキッサのヨハネスは後者のアルコールを第五元素と呼び、天界の本質的成分であって優れた治癒力を持つとした。そして太陽たる金がアルコールに溶けた飲用の金はさらに優れた医薬だとした。
やがてアルコールは(薬草や鉱物などの)物質から他の第五元素(クイントエッセンス・生命霊気)を分離抽出する作用があると考えられるようになった(cf.No.658補記)。バレンティヌスらは、輝安鉱からの生成物にアルコール(ブドウ酒精)を作用させて、医薬用のチンキを得た
(→No.643、No.651
アンチモニー・オイルなど)。
付記7:眉墨(コール)は顔を美しく見せる化粧の効果もあったであろうが、もとは邪眼除けのための化粧だったという。すなわち、眼の周りを黒くし、醜くみせることによって嫉視、視線の集中を避けたのである。千夜一夜物語(ちくまバートン版巻1)「ル・アル・ディン・アリとその息子バドル・アン・ディン・ハサンの物語」には、眼を丈夫にするため、臍の緒を切ったばかりのみどり児のまぶたにコールを塗る描写が出てくる。
インドのベンガル地方では「カジョル」と呼んで、眼を保護するために油煙を塗った。(「首に真珠の首飾りを掛け 額に赤い丸いシンドゥルを付け 目にカジョルを引き 金の縁のついた真っ赤な絹のサリーを着て また鏡に尋ねた 『私に本当のことを言っておくれ 今日世界中でいちばん美しい女は誰なの?』」(タゴール「鏡の中の王女さま」より)
またマホメットの時代、アラビアの沙漠地帯(ワディ・ハニーファ)にタスム族とジャディース族が住んでいた。タスム族の出でジャディース族に嫁した「ヤマーマの青い目」と呼ばれる、遠目の利く女があった。女のまぶたには黒い筋が何本も入っていたので、ある王がどういうわけかと尋ねた。女は「イスミド」という黒い石を粉にしてまぶたに塗る習慣があると答えた。イスミドはメスメッド、スティミと同様、輝安鉱のことである。これ以来アラビアの沙漠の女たちにイスミド(アル・クフル)を塗る風習が広まった、とマスウーディーの「黄金の牧場」(956年、バグダード)は述べているそうだ。
付記8:「歴史的にアンチ・モンクにふさわしいのはむしろ砒素かと思われる。」 …僧と毒物といえば、エーコの「薔薇の名前」が思い出される。羊皮紙写本のめくりにくいページの端に塗られた砒素によって、指先をなめつつページを繰った人々が死んでしまうのだが、同様のお話(汗に溶けた薬物が手の皮膚から吸収される)は千夜一夜物語でも語られている(ちくまバートン版巻1)。