関連ページ
1.
ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見(ノース人植民地)
2.1 6世紀ヨーロッパの北方世界認識 (当時の世界・極地方地図)
3. 北西航路と北西鉱石(マーティン・フロビッシャーの探検航海)
4. ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見2(ジョン・デイヴィスの探検航海)
5. 銀鉱の島・鯨漁りの海 (ジェームズ・ホールの探検航海・捕鯨略史)
6. 18世紀デンマークのグリーンランド植民(金鉱、ハンス・エゲデの伝道)
7.
ニューベッドフォードの捕鯨博物館(アメリカ捕鯨の台頭と衰退)
◆1721年に始まるハンス・エゲデらの活動により、グリーンランドは数世紀ぶりにヨーロッパ人の定住するところとなった。イギリス人が発見した入り江にデンマーク=ノルウェーが最初の入植地を築いたのであるが、当時のイギリスは前世紀の英蘭戦争でオランダを凌駕した勢いを駆って、アメリカ大陸やインド亜大陸におけるフランスとの植民地獲得競争に向かっていた。後世に第二次百年戦争と呼ばれる大掛かりな勢力争いを演じる彼らから見ると、グリーンランド交易はさして割のいい事業と考えられず、友好国デンマークによる領有はむしろ好都合だったであろう。
もっともデンマークにしても、ハンス・エゲデという篤志の伝道者がなければ植民地化は緒につかず、ヤコブ・セーレンセン・セブリン(1691-1753)という事業家がなければ、その経営は道半ばにして絶えていたに違いない。
セブリンはアイスランドやフィンマルクとデンマーク間の独占交易を許された富裕な商人で、スピッツベルゲン海域での捕鯨業にも携わっていた人物である。フレドリク4世の治下、ハンスらのベルゲン・グリーンランド会社や、クラウス・パールスによる植民地経営はほとんど利益を生み出さなかったが、セブリンは成り行きを慎重に検討して投資を決断し、新王クリスチアン6世に新たな勅許事業を願い出た。1733年、新王は新会社にグリーンランドでの全権を認めた。それは前王と異なり、もはやオランダとの対立を辞さない意思の表明でもあった。
悲劇的な天然痘の流行により、新会社は最初の3年間で
16,000リクスダラーの損失を余儀なくされたが、ハンスの息子ポール(1708-1789)らと協力して西岸各地に交易拠点を築いていった。ディスコ湾の南、クリスチャンハーブには1735年に木造の拠点が建てられた。火山の島ディスコ島(現地語にケケルタルスアク)を擁するこの湾はグリーンランドでもっとも自然の豊かな海域で、鯨やイッカクなど海獣の宝庫だった。周辺の陸地には緑野が広がり、野鳥や野兎、トナカイなどの鳥獣の姿があった。ハンスは入植してまもない頃、鯨が泳ぐ海の話を原住民から聞き取り、ミッツェル神父らに一帯を調査させていた。捕鯨拠点とすべき土地の目星を早くもつけていたのである。
一方、当時の捕鯨大国オランダはホッキョク鯨の好漁場であるデイヴィス海峡に多数の船団を送り込んでいた。この海域に鯨が棲息することは、イギリスのジョン・デイヴィスの3度の航海(1585-1587)においてすでに確認されており、バフィンの2度の航海(1615-16)の報告でも捕鯨とセイウチ猟が推奨されていた。
ハンスが入植した翌年の1722年には 137隻のオランダ船がこの海域に出漁した。海峡での漁はもちろん、グリーンランドの原住民とも接触し交易した。必要があれば上陸した。デンマークの領有宣言や入植は必ずしもオランダの活動に対する抑止力にはならなかった。そもそもオランダは公海上の資源は誰のものでもないという立場をとって強く大洋に乗り出した国家だった。かつてイギリスは多くの他国捕鯨船が見守る中、北米の領土宣言を行って入植を敢行したものだが、そのイギリスとスピッツベルゲン島の捕鯨拠点を争って優位を占めたのがオランダである。「無主地」であった自分たちの漁場に、家屋一つ建てたからもうここはデンマーク領である、という理屈に耳を傾けるはずがなかった。問われるのは実効支配力である。植民初期にニピサット島に設けられた捕鯨拠点は 1726年にオランダの武装捕鯨船の焼き討ちに遭ったが、デンマークは対抗措置をとらずに引き下がった。
しかしセブリンの新会社による島の「統治」が始まると、両国はディスコ湾の漁業権を巡って対立した。1739年6月にはオランダの武装船
4隻とセブリンの船団3隻との交戦が記録されている。この時セブリンの船団はデンマーク旗を掲げて対峙、75分間の砲撃戦の末オランダ船を退去せしめた。デンマーク側の被害は1隻にとどまった。
とはいえ決着がついたわけでなく、オランダとの折衝は続いた。そのことがかえってデンマークの拠点拡充の推進力となった。当時、高値で取引されたイッカク鯨の角は魅力的な商品で、1746年にはこれを求めるオランダ船団が一度に 40隻もディスコ湾に進入したという。こうなるとデンマーク側は打つ手なしであった。セブリンは 1749年にグリーンランド交易から手を引いたが、エゲデ兄弟らとの親交を続けて植民活動を支援した。その後、交易事業はグリーランド総合交易会社の手で行われ、この会社が 1774年に破産すると、王立グリーンランド貿易会社に引き継がれて20世紀に至った。
◆18世紀を通じて、グリーンランドの東西海域は海獣資源の漁場として、氷海に危険を冒して出漁する捕鯨船の往来する場として、欧米人の眼に映っていた。世紀前半、氷海の覇者はオランダであった。しかし後半期になると勢力図は大幅に塗り替えられる。沿岸捕鯨から始まったアメリカ植民地の捕鯨船が沖合捕鯨に向かい、1730年代にはデイヴィス海峡まで足を伸ばすようになった。アメリカの生産する鯨油は欧州に(イギリスに)送られ、オランダが独占していた市場を蚕食した。またイギリス本国も1733年頃から捕鯨復活を国策とするようになった。その成長は遅々としていたが、1750年に補助金の増額が決まると漸く上向き、アメリカ独立戦争が始まると一気に躍進して、戦争が終わる頃には船隻数でアメリカと立場を入れ替えた。イギリスとアメリカが捕鯨産業をリードし、オランダ捕鯨は見る影もなく凋落していた。(cf.ニューベッドフォードの捕鯨博物館)
ディスコ湾周辺を徘徊したオランダ船は 1770年代に、後からやってきたスコットランドの捕鯨船に追われるように姿を消した。スコットランドの船乗りたちは、あたりの入り江をデュークス・コーヴと改名した。ディスコ島はオランダ風の名称だが、もともとの語源は
17世紀初に活躍した港町ハルの船乗りトーマス・マーマデュークに遡る(補記6)。
資源豊富で温暖なディスコ島に住む原住民は豊かで誇り高く、白人の上陸を容易に許さず、また文化的な介入を拒んだが、しかし追い払うことも出来なかった。
白人との接触による天然痘の蔓延がこの地方でも発生し、何度も繰り返した。1800年頃までにデンマーク植民地周辺の原住民人口は大幅に減ってしまった。それでもデンマーク人は生き残った原住民を使って湾内での海獣漁に精を出した(原住民はもともと湾内捕鯨を行っていた)。
イギリスの捕鯨船団もまた夏のシーズンになると姿を見せ、ディスコ湾を拠点にさらに北上して鯨を追った。しかし、1616年の北西航路探検でバフィンが記録した最北地点に達した船団があったかどうかは記録されていない。おそらくなかっただろうと思われるが、あったとしても漁場の情報は商売上の秘密で公には取り上げられなかった。デイヴィス海峡の北方は夏が遅くなっても南下する流氷原に埋まっているのが普通で、流氷に閉じ込められる危険がつねにあった。バフィンが報告した氷のない海は世間一般にはあまり信じられていなかった。
◆話は少し横道にそれるが、18世紀後半はイギリスの外洋航海力・海軍力が急速に高まった時期でもあった。1768年から1780年にかけて行われた海軍士官ジェームズ・クック(1728-1779)による3度の世界周航はその象徴的な出来事といえる。イギリスは古くエリザベス一世の時代から海賊国家として勇名を馳せていた。新大陸の莫大な富を獲得した大国スペインの商船をほしいままに略奪し、北米東海岸を領土化し、スペインの至福艦隊(アルマダ)を撃退した。その後、17世紀半ばに常設海軍が創設されて、商船の護衛、敵国の艦隊や交易拠点の戦略的封鎖・破壊・拿捕といった任務を引き受けてゆく。イギリス海軍はオランダ、スペイン、フランスとの相次ぐ戦争を経るたび戦力を増強して、貿易の発展を支えた。通商路の確保はもとより、新航路の開拓や海域の測量、精確な地図・航路図の作製も海軍の重要な役割となり、科学への貢献さえ任務に謳われた。もちろん国益に繋がるならば、である。クックの航海もそうしたサービスの一環として捉えられる。
第一回の航海(1768-1771)は金星の日面通過を南太平洋において観測することが表向きの任務とされた。これはロンドン王立協会の計画で海軍省はその支援要請を受けたのであるが、探検隊の指揮を望んだ協会の意向は退けられ、若いクックが指揮官に任命された(補記1)。クックは下士官だったが「優れた数学者・海洋測量の天才」と海軍内で定評があり、指揮権を持つ尉官に昇進しての抜擢だった。航海目的は自然科学ばかりでなく、その頃南太平洋を航行して領土を拡張していたフランスへの対抗措置の側面もあった。
科学研究班としては植物学者のソランダー博士やスポーリング、また博物学に通じた富裕な郷紳ジョゼフ・バンクス(1743-1820)らが乗り組んだ。バンクスは海軍大臣サンドイッチ伯の親友で、この航海のため1万ポンドの私費を拠出した。
ヨークシャーのウィットビーを出港した隊は西回りの航路をとった。南アメリカのホーン岬を越えて南太平洋を横断し、タヒチ島に至って任務を果たした。その後、クックは封緘指令書を開封し、存在が信じられていた南方大陸(テラ・アウストラリス)の探索を行った。ニュージーランドを周航、オーストラリア大陸に上陸して東海岸の領有を宣言したのはこの時である。南方大陸は発見されず、少なくとも南緯
40度より以北に存在する可能性はほとんどないことが明らかになった。
第二回の航海(1772-1775)もまた王立協会の意向で、南方大陸の探索(領有)が目的だった。引き続きバンクスも参加するつもりでいたが、隊の指揮系統や待遇を巡って海軍省と確執し、結局ドイツの博物学者フォスター父子が代わりになった。東回りの航路をとり、アフリカ南端を経て高緯度海域を東進して、1773年1月17日、ついに南極圏に入った。しかし大陸は発見できず、南太平洋から南アメリカ南端をこえて帰国した。南方大陸は存在しない、もし存在するとしても想像されていたよりずっと南方の、氷に阻まれて近づきようのない環境にあろう、とクックは結論している。この航海ではクロノメータ(経緯儀)が使用されて精確な経度が決定された。また後に南大西洋の捕鯨拠点となる南の果ての島サウスジョージア島が発見され領土宣言された。
第三回の航海(1776-1780)は北西航路の探索が任務だった。北米大陸の北を回って大西洋と太平洋とを結ぶ最短航路の発見は16世紀初以来のイギリスの夢で、この頃再び取沙汰されるようになっていた。
1745年に政府は航路発見に懸賞金を掛けたが成果がなく、1776年に改めて報奨が議決された。航路は北緯62度以北(ハドソン海峡より北)。85度以上を航海すれば追加報奨金が与えられる。イギリス海軍はこの賞金の獲得を狙ったといわれる。東周りの航路でニュージーランド島まで進んだ後に北米に向かって北上した。クックはヨーロッパ人として初めてハワイ諸島に上陸した後、アメリカ北西岸を進んで広大な沿岸地域を海図に作製した。半世紀ほど前に(再)発見されたベーリング海峡を北上して北極海への進入を試みた。しかしすでに秋を迎えた海峡は氷に閉ざされて、北緯70度より先に進めなかった。クックはハワイ諸島に引き返し、そこで命を落とした。
ちなみに19世紀のハワイは小笠原諸島から日本近海にまで押し寄せる捕鯨船団の寄港地として栄えたが、捕鯨船が初めて姿を見せるのは
1819年のことである。
クックの航海はイギリスの勢力が(フランスやオランダに劣らず)世界に及ぶことを力強く示し、同時に地理学・自然科学の発展に大きく寄与するものと評価された。随所に地誌的な観察を行い、貴重な博物標本を持ち帰った。イギリス社会は地理的探検に大いに関心を持つようになり、1788年にはリンネ協会やアフリカ協会が設立されて、植物採集行やアフリカ旅行が流行した。ヨーロッパ中に地理学ブームが起こった。
この頃までイギリスの海運業の成長はエリザベス朝以来一貫して緩やかなものだったと考えられているが、アメリカ独立戦争を経て
1790年代に入ると急速な伸長をみせる。ヨーロッパ沿岸をゆく小型商船に加え、大西洋航路を往来する大型商船が増えた。アジア交易船も大型化した。外洋交易船はそれ自体武装船であるのが通例だったが、伴ってイギリス海軍も陣容を拡充し、ナポレオン戦争(1803参戦-1815)が終わる頃には文字通り世界最強の海軍国となっていた。1805年のトラファルガーの海戦におけるフランス・スペイン艦隊に対する勝利は歴史のターニングポイントと評される。19世紀のイギリスはルール・ブリタニアの詩さながら、七つの海を闊歩しパックス・ブリタニカを現出してゆく。長期航海者を悩ませた壊血病も漸く克服に近づいていた。
そうした時代背景の下、19世紀前半にはイギリス海軍によってグリーンランド東西海域から北米大陸北岸を舞台に地理学上の探検が繰り返し展開される。
◆ウィリアム・スコーズビー(スコアズビー)(1789-1857)の名はイギリス捕鯨史上に燦然と輝く。同じ名をもつ父(1760-1829)は捕鯨港ウィットビー近くのクロプトン村の生まれ。百姓を嫌って海に出て、後に捕鯨業者として財をなした。船のマストの上方に置く見張り台(クロウズ・ネスト)の考案者として知られる。浮上して汐を噴く鯨を出来るだけ遠方から発見するための工夫である。乗組員を一方の舷側からいっせいに他方に移動させて船を揺らせ、若氷の付着を防ぐ方法を始めたのも彼という。1806年にはスピッツベルゲン海域の浮氷を突破して北緯 81°31' に到る。当時の最北記録だった。
子のスコーズビーは11歳の時、父が船長を務める船に乗ったのを皮切りに父子で何度も捕鯨航海に出た。最北記録を樹てた航海では一等航海士を務めた。陸にいる期間にエジンバラ大学に通って自然哲学と化学を学び、北極圏の気象や生物に深い関心を持って研究報告を書いた。インテリ捕鯨業者の誕生である。1811年以降は父の船の指揮を任され、極圏の海を鯨を追って往来しながら、航海ごとに新しい科学的知見をもたらした。クックの第一回航海に参加した博物学者ジョゼフ・バンクスは
1778年以来、長年ロンドン王立協会会長の任にあったが、スコーズビーは航海が終わるとその様子をバンクスに書き送ったものだ。
1820年には名高い「北極圏-北極海捕鯨の歴史」を発表する。当時の捕鯨の様子、またそれ以前のヨーロッパ捕鯨史を幾らかなりと辿ることが出来るのはこの文書のおかげである。
1817年、スコーズビーはウィットビーから16度目の捕鯨航海に出た。東グリーンランド海域の状況はこれまでになく良好だった。鯨は少なかったが、この2年のうちに北緯
74度から80度にいたる広い範囲(スピッツベルゲン島と同緯度あたり)ですっかり氷がなくなっていたのである。彼の父の40年にわたる航海経験に照らしても例のないことであった。極地方の温度が上がって氷の溶け出す時期が早まったものと思われる。一方仲間の捕鯨業者によるとラブラドール沖や北大西洋では南に押し出してきた流氷が何時になく大量に見られたという。
スコーズビーは状況をバンクスに書き送り、報文は四季報に載せられた。今こそ極点を目指す格好の機会と捉えられ、海軍省はその年のうちに壮大な探検計画を立案した。
2つの主船団を北極圏に送る。すなわちグリーンランド海を北上して出来るだけ極点に近づいてベーリング海峡へ向かう最短航路を行く(極点に近づけない時はグリーンランド北部を西に抜けるルートを探る)一隊と、デイヴィス海峡を北上する伝統的なルートを進んで北西航路の入口を探る一隊とである。また北太平洋に別隊を派遣して彼らをベーリング海峡で迎え、要すれば生存者の救助にあたらせる。傍ら陸上隊によって大部分が未知の北米(イギリス領カナダ)・北氷洋の海岸線を調査する。つまりあらゆる手段を駆使して極地を探査しようというのである。ちょうど英米戦争やナポレオン戦争が終わったところで兵卒数は大幅に縮小されていたが、士官層は温存されており、派遣する艦にも困らない。「地理学、航海学、そして商業の推進」を目的に掲げたこの計画には王立協会の強い支持が与えられた。
探検の実現に奔走したのは書記官のジョン・バロー(1764-1848)である。ランカシャーの革職人の息子に生まれ、少年時代にリバプールの鋳物工場で働いた後、16歳の時に捕鯨船に乗ってグリーンランドを航海した経験を持つ。もとは牧師を志望していたが教育を受けて数学教師になり、中国語を覚えて中国や南アフリカで秘書的な仕事に就いた。1804年にイギリスに戻ると海軍本部の書記次官に任じられた。以降
40年にわたって職責を全うし、その間に海軍が行った数々の探検行動を推し進めてゆく人物である。バローは北極圏に魅せられ、過去の探検記録、特にエリザベス朝の文献に精通していた。
1817年の終わり頃、スコーズビーは彼自身が指揮することを前提とした探検計画を海軍省に提案したが、バローは「商船隊の一船員に部下を任せる考えはまったくない。しかし軍の指揮下で働きたいというなら君の自由だ」と高飛車にはねつけた。もちろん氷海の探検航行に経験豊富な水先案内人は不可欠である。結局どの船にも捕鯨業者が航海士として乗組んだが、スコーズビーの姿はなかった。(補記2)
極地探検には反対論もあったが世論は概ね好感を示し、議会も報奨金を出すことを議決した。北西航路の発見者または北極点への到達者に
10,000ポンド。また西経110度を越えた者に 5,000ポンドである。1818年の晩春、各船団が出港していった。
探検隊が任務を遂行中のその夏、バローは「北極地方航海の年代史」(1818年8月)を出版した。16世紀から19世紀に至る北方航路の探検記録を年代記的に辿って世間の関心に応えた書物で、今回の探検の意義、成功の見込みを縷々述べている。その中で、高緯度グリーンランドの東岸を閉ざしていた氷が溶け出したのは4世紀ぶりの出来事だとしている。
◆グリーンランド海をゆく北進隊は隊長デビッド・バカン大佐(1780-1838)が指揮する砲艦ドロテア号
370トンと、副隊長ジョン・フランクリン大尉(1786-1847)が指揮するトレント号
250トンの2隻だった。2年分の食糧と燃料とを積載し、極地越冬を辞さない構えである。かつてフロビッシャーが
25トン以下の装備の乏しい船で北西航路に乗り出した頃と比べるとまさに隔世の観があった。
4月4日にロンドンを出た船隊がスピッツベルゲン島に入ったのは
6月で、すでに彼らは旅の困難を認識していた。グリーンランド海は以前と同じように浮氷で埋まっていたのである。氷結したマグダレナ湾に2週間ほど閉じ込められた後、開水面を伝って北進したが、氷の上に降りて船をロープで曳航しなければならないことがしばしばだった。7月上旬までに進んだ距離は
30マイル、緯度は 80度を少し越えたあたり。そこで船団は進路を閉ざす厚い氷に阻まれた。9日目に開水面が生じたが、ほぼ同時に暴風雨になった。ドロテア号の損傷は激しく、極地航行は不能と判断された。フランクリンはトレント号の探検継続を願ったがバカンは転針を命じた。船隊はスピッツベルゲン島の北西海岸地図を作っただけで、9月30日に帰投した。ちなみにフランクリンはこの後、極地探検隊を率いて北米大陸北部に足跡を残し、やがて誰もが知る人物となる。
◆北西航路をゆく西進隊は、隊長のジョン・ロス中佐(1777-1856)がイザベラ号 382トンを、副隊長のウィリアム・エドワード・パリー大尉(1790-1855)がアレキサンダー号 252トンを指揮した。グリーンランド西岸に沿って北上した船隊はかつてバフィンが記録した最北地点に2世紀ぶりに到達した。その航跡を少し詳しく辿ってみたい。
ロスはスコットランドのインチの牧師の息子に生まれ、9歳のとき見習い生(将来の士官候補生)としてイギリス海軍に入り、地中海艦隊や海峡艦隊で勤務した。ナポレオン戦争中にスウェーデン海軍に転籍し、1812年に中佐となった。北極圏航海の経験がなかったロスは、今回の計画で北西航路隊の指揮を打診された時、グリーンランド周辺の海域に詳しい航海士と、現地人との接触が必要になった場合にそなえてエスキモー(イヌイット)の通訳をつけると聞かされて、それなら、と引き受けたようだ。(副隊長の若いパリーは、捕鯨船団を護衛する軍艦の士官を務めて、グリーンランド東西の氷海を経験していた。)
受け取った指令書には、船隊2隻を率いてデイヴィス海峡を北上し、鯨捕りの言う(実在がたしかでない)「バフィン湾」を進んで、西側から来る海流があればそれを辿って北西航路を見つけ、ベーリング海に抜けることが指示されていた。指令書によると、民間商船がグリーンランドの西側を航行することはあるものの、その地理は必ずしも公知でなかったらしい(バローの地図参照)。
デイヴィス海峡のあたりはグリーンランドからラブラドール半島にかけて一面に氷が張りつめていることもあるが、潮流の強いところでは開水面が生じて航行できる場合があること、海峡を越えて「バフィン湾」に入れば、(バフィンの記録によると)氷のない海が開けているらしいこと等が書かれている。
航海中は海流、潮位、氷の状態および地磁気を定期的に測定し、生物・鉱物の標本を集めることも任務とされたが、進路が開けているかぎり寄り道を避け、不必要に原住民たちと接触せずに、ひたすら前進するよう指示されている。また(北西航路に進入できず)グリーンランドに留まっている場合は
9月中旬、遅くとも 10月初にはイギリスに向かうべきこととされていた。
北西航路については 1616年に行われたウィリアム・バフィン(1584-1622)の探検より詳しい記録は見当たらなかったわけで、ロスはこの古い(指令書が疑念を留保する)文書を携えて未知の海域に向かったのだった。
通訳のザッケウスはロンドンのデトフォードで隊に合流した。彼はグリーンランド中西部のエスキモーで、仲間5人と海に出ていて遭難し、一人生き残ってイギリス船に救助された。イギリスに興味を抱き、キリスト教に改宗してイギリス人と共に行動した。その後、伝道の志をもって故郷に戻ってみると縁者は死去していたため、再びイギリスに戻って探検隊に参加することを承知したという。
◆船団は 4月26日にロンドンを出港、船の調子を見てシェトランド島で装備の最終確認を行い、
5月3日にフェアウェル岬に向けて針路をとった。
5月17日、北緯 57°28', 西経 28°20'を通過。これはかの「沈んだ」バス島があるとされた位置で、水深測量をしたが何も見つからなかった。グリーンランド南端を通過して針路を北に向けた。初めて氷山を目にしたのは
26日である。
6月上旬は陸地を視界に入れながら、氷山を迂回しつつ北上を続けた。4日には北緯
65°42'にアン女王岬と思しい陸標を確認した。あたりのフィヨルド地形はロスにノルウェーの海岸を連想させた。
北緯 66°22', 西経 56°37'
(シシミウトのやや南)まで北進したところで海峡はすっかり流氷群(パック・アイス)に塞がれてしまった。航海士は陸地付近にしか開水路はないと判断して(一般に重たい流氷の底は深く沈んでいるので、水深の浅い陸地付近まで入り込まない)、船を北東に向け氷塊の間を伝って進んだ。
9日、小島ほどもある巨大な不動氷に沿って進み、天候がよかったので上陸を試みたところ、数人の原住民が近づいてきた。そしてこの氷の島が昨年から同じ位置に留まってディスコ島への通路を塞いでいることを教えられた。
船隊はディスコ島周辺で数日を過ごした。その間に島の西の湾にいたハルからの捕鯨船や、東に向ったものの進路を見つけられず引き返してきた捕鯨船やと情報を交換した。昨冬は例年になく厳しい寒さで、ディスコ湾は完全に氷結し、ゴットハブンやベイガト海峡はまだ凍ったままだという。北には犬島、鯨島、ジェームズ島などが並び、鯨島にはデーン人(デンマーク人)が住んで
100人のエスキモーを雇ってアザラシや鯨漁をしているが、この冬は鯨が獲れなかったらしい。
島の西側を陸に沿って進むことが出来るだろうと教わって少しずつ北進したが、17日には封じられて動けなくなった。上陸して様子を見れば、同じように氷に捕まって立ち往生の捕鯨船が
45隻数えられた。そのうちの一隻ラーキンス号はここから
200マイル北の北緯 75°15'まで上っており、どこまで北に行けるかはやはり陸地に沿ってどこまで進めるか次第だという。海原は氷で埋まっているのだ。ロスらは博物標本を採集して時間を過ごした。
3日後、氷がかなり緩み始めたので船を解放するために働いたが、また封じられて氷とともに潮流のまま流されることになった。潮流が変化して氷山から船が離れるとすぐ自力航行を再開したが、
風が吹いて氷山が迫るたびその重みで船が沈みそうになり非常に危険だった。結局氷山について進むことにした。
29日、デーン人が知らず島と呼ぶあたりで原住民を見かけた。通訳のザッケウスが上陸して彼らを船に招いた。その中にデーン人の血の入った人々があった。彼らはデーン人が建てた工場を管理していたが、ハルから来た捕鯨船に焼かれてしまったという。ソリと犬を手に入れるためにライフルと交換した。ライフルに火薬を詰め過ぎた男が負傷して、小さな騒ぎになった。
船隊は捕鯨船と一緒に少しずつ北へ動き、7月3日にはサンダーソン・ホープを望むことが出来た(北緯72度あたり)。何度も氷山に挟まれ、締め付けられ、海面から押し上げられながら、氷と陸地の間を進み戻りして緯度を稼ぐ。時には全員が船を下りてマストに張ったロープを引っ張って船を動かさなければならなかった。楽師が先頭に立ちマーチを奏して拍子をとった。雪で隠れた穴に誰かが落ちてしまうこともあった。
こうして 21日、北緯 74°50' まで進んだ時、北方に氷が大きく開けるのを見た。船隊はようやく帆を張って進むことが出来た。24日は
75°12' に達して未知の湾を発見した。西に向かって 76度まで伸びるこの湾は海軍大臣に献名してメルヴィル湾と、湾の中間にそそり立つ岩はメルヴィル・モニュメントと名付けられた。沢山の鯨が後を追って泳ぎ、捕鯨船は漁に忙しく働いた。探検隊は上陸して標本採集を行った。8月4日、メルヴィル湾の北端に到り、メルヴィル岬と命名した。
◆海は再び氷で塞がっていた。6日、狭い開水面を船を曳いて西へ向かったが進路は閉じてしまい、北へ進むと氷圧に押し潰されそうになった。それまでも間一髪の危機を何度もくぐってきたのだったが、かつてない危うさで、ついてきた捕鯨業者は、ふつうの捕鯨船なら粉々に砕けていたに違いないと言った。強風が吹いて巨大な氷山が近づいてきたため、やむなく陸地に向かって避難した。捕鯨船は船の修繕を行い、観測班のセービン大尉らが
6マイル離れた陸地に上陸した。そこにはエスキモーの墓らしき石積みがあった。
8日の夜、氷上に人影が現れた。遭難者と思ったが、犬橇を走らせる原住民だった。ザッケウスが話しかけたがあまり通じず、橇をおいて逃げ出して遠くからこちらを窺っていた。贈り物のナイフや衣服を積んでボートを出し、橇の側に置いてみたりしたが、結局接触出来ないまま先へ進むことになった。
10日の朝、数人のエスキモーが姿をみせ、氷山の上から船を見ていた。武装を解いて近づいたザッケウスは、今度は水路を挟んで向かい合って挨拶を交わすことが出来た。彼らはフムーク方言に近い言葉を話した。互いが理解できる言葉を見つけて質問をしあった。自分たちは南にある土地から来たとザッケウスが言うと、彼らは「ありえない。そこには氷しかない」と言った。「あの大きな生き物は何だ」と船を指す。「木で作った家だ」と答えると、「違う。あれらは生きている。翼を動かしているのを見た」と言った。
彼らは北にある水の豊かな地からイッカクを獲りに来たらしい。水路に板を渡して彼らの側にゆくと、ようやくザッケウスが人であることを納得して贈り物の交換に応じた。こちらからはナイフや衣服を、相手はイッカクの角やアザラシの歯を差し出した。望遠鏡で様子を見ていたロスは我慢しきれなくなり、パリーを連れて近づいていった。ロスはザッケウスに教えられた友好の身振りをして、彼らを真似て「ヘイ・ヨー」と声を掛けた。
誘われて船に乗った彼らはあらゆるものに驚きを示した。ボートを作る釘を欲しがった。自分のナイフを持っており、鉄を知っていたのである。さまざまに歓待している間に交換で入手したナイフを鍛冶職に調べさせたがまさに鉄で、銛か平クギから作ったもののようだった。以前に岸に漂着した板やモノから取ったのかと聞くと、クギのついた板が漂着したことがあったと言う。ロスはそれを使ったのだろうと納得した。彼らは船を下り、何か食べて眠ったら戻ってくると伝えた。しかし翌日になると風に吹かれた流氷が寄せてきたため船を動かして避難せざるを得ず、西へ7マイル行ったところで巨大な氷山の裾におさまった。
ザッケウスから前日の原住民について詳しい話を聞くと、彼らは先に女子供を山に避難させてから、自分たちに害を与えずに立ち去るよう求めるつもりで船に近づいたのだという。ナイフの鉄は岸辺に近い山からとってきたもので、そこに鉄の岩が一つ、またはいくつかあるらしい。その岩を鋭利な石で切り取って加工したのだ。おそらく
9日に上陸した場所に氷で繋がっていた山と思しいが、すでに遠く離れており、また氷の状態からして調査隊を出すことは不可能だった。
◆13日はきわめて空気の澄んだ日で、西南西に陸地を望見出来た。とても素晴らしい光景だった。この 3日間に夥しい数の鯨を見た。イッカクもいた。この日、先に会った人々から船の話を聞いたという別の氏族がやってきた。メイガックと名乗る父親と息子2人の家族で、ペトワックからこの地アクロウィシックにアザラシやイッカク、それに鉄を採りにきたという。持っているナイフについて訊くと、例の山から採ったものらしい。そこにはいくつかの大きな塊があり、最大のものは他のよりも硬く、山の一部をなしている。他のものは地上に転がっているがそれほど硬くない。硬い方の鉄を切り取り、数センチサイズの楕円形に打ち広げる。その土地はソワリックと呼ばれ、少なくとも 25マイルは離れており、天候が変わりやすいという。調査隊を出すのは難しかったので、十分なお礼をするから標本をとってきてほしいと頼んだ。船を去るときにも念を押した。鉱産資源の調査も任務のうちであるから、なんとか標本を手に入れたかったのである。メイガックは、食べて寝たらもっと仲間を連れて鉄を持ってくると言った。
翌日、メイガックらと、最初に出会った者たちも加わって
10人の原住民がきた。ロスとパリーはザッケウスを伴って会いにゆき、橇やらナイフやらを手に入れた。前に断られた犬も欲しかったのだが、やはり断られた。頼んでおいた鉄を持ってないと知ったロスは落胆し、礼にするつもりの品を見せながら、持ってきてくれるまでは差し上げないと言った。山は遠いので行って帰ってくるには2晩寝なければならない、とメイガックは言うのだった。彼らの衣装の飾りも欲しかったので余分なものを持ってくるように頼んだ。
15日、メイガック親子は来なかったが、他の者が来た。鉄も衣装飾りもないと聞いたロスは乗船を拒み、贈り物もしないと告げさせた。彼らはインマリックという土地に行って鉄を切る石をとってきたと言い、その一つをくれた。それは玄武岩のようで乾いたコケのようにも見えた。
その夜の天候は穏かだった。翌日の午後には船をずっと守っていた氷山が陸から離れ、南へ流れ出した。夕方になると開水面が大きく広がり北方への進路が開けた。エスキモーたちが戻ってくる様子はなく、ロスは本来の使命に戻る時だと判断した。この土地にアークティック・ハイランズ(極北高地)の名を与えて湾を出た。
極北に住むエスキモーとの出会いはロスに深い印象を残したようである。帰国後にまとめた「発見の航海」(1819)でロスは、この土地は地形によって孤絶しており、彼らは南に住むエスキモーたちと交流がなく、自分たちが唯一の人間であり、他の土地はただ氷の塊だと考えていたのだ、と述べている。
探検隊がイギリスに持ち帰った粗雑な造りの鉄ナイフや鉄刃の銛は、ウォラストン博士の研究で
3〜4%のニッケルを含むことが分かった。これまで世界各地の地表で発見された鉄に似ており、おそらく隕石起源(隕鉄/天降り鉄)だろうと言う。なおソワリックは鉄の山の意で、この地方でも南部でも鉄を表す語はソウィックである。南部ではナイフをも表す。この地方ではナイフをベラウドゥクと言った。
エスキモーが集まる村は
19世紀後半にサビシヴィクの名で知られるようになる。20世紀初に北極点に立つピアリーは、犬橇による氷上の旅の仕方、極寒の地で生き抜く技術を彼らから学ぶのだ。ピアリーはソワリックにあった巨大な鉄塊を運び出し、米国で売却して探検費用にあてる。詳しくはいずれまたの機会に。
船隊は北方の氷の障壁の間に生じた浅い開水面を伝い抜け、夕方4時に岬を回った。ヨーク公の誕生日だったので、ヨーク岬と名付けた。ボートを数隻出して博物標本を採取した。翌日、ヨーク岬の崖を覆う雪が錆びた色をしているのに気づいた。クリムゾン・クリフスと命名した深紅色の崖に、ジェームズ・ロス(ジョン・ロスの甥)らが上陸して雪や植物を採集した。雪は表面から
3〜4mの深さまで赤く染まっており、随分長い時間をかけて形成されたものと思われた。持ち帰った雪を
110倍の顕微鏡で観察すると、赤色の粒の揃った小さな丸い種のようなものが含まれていた。いくつかの粒には黒い小片がついていた。科学班の意見は植物の一種であるとの見方に傾いた。雪を採集したのは高さ
600フィートの丘の斜面で、その上方に黄緑色や赤茶色の植生が観察できたからである。崖は
8マイルにわたって延びていた。
この夜ロスは雪を溶かしたものを瓶詰にしたが、どろどろのポートワインのように見えた。数時間後に沈殿した澱を紙につけるとインディアン赤色(ベンガラ色)を呈した。帰国後の調査でウォラストン博士は、山の上で発生した植物であり海産物の可能性はないとした(多くの異見があり、タイムズ紙には隕鉄に関連づける説が紹介された)。
「発見の航海」の付属資料「クリムゾン・クリフスの雪と隕石質の鉄」にロスは、航海で得られたもっとも興味深い博物学的発見はこの2つだったと述べている。赤い雪は今日「彩雪」として知られており、藻類に含まれる酸化鉄の色が原因とされている。
◆17日の夕刻、手前に特徴的な円錐形の小島のある岬を認めた。バフィンが記録したより南に
2,3マイルずれてはいたが、ダドリー・ディグス岬に違いなかった。一行はとうとう、かつてバフィン隊だけが目にした土地を再発見したのである。北方に陸地の連なりが見えた。入り江もいくつかあったがいずれも氷河で埋まっていた。北に見える島はエスキモーが話していた彼らの王の住む島ペトワック(ウォルステンホルム島)と想像されたが、訪問を断念して先を急いだ。夏の季節も随分遅くなっており、この先どんなことで遅れが生じるかもしれず、北西航路の探索に全力を尽くす必要があったのだ。
19日にはかのハクルート島が、20日未明にはスミス入り江(実は海峡)がはっきりと確認出来た。実際このあたりの地形は
200年前のバフィンの描写によく一致していた。ロスはスミス入り江の両側の岬を、船隊に因んでイザベラ岬、アレキサンダー岬と名づけた。入り江の湾奥まで
18リーグあると推測したが、湾口は完全に氷に閉ざされており、濃い霧がたち込めてきたため、船を西に転針させた。そして北方への航路がないことを確認して西岸(エルズミーア島)に沿って南西に下り、北または西への進入路を探した。最北到達点の緯度は
76°55'。磁針は西に約105度振れていた。21日、バフィンの記録したジョーンズ入り江(実は海峡)を確認、進入したが湾奥を塞ぐ氷と氷河を見て戻り、南下を続けることに決めた。このあたりはアザラシが多く、また巨大な熊の足跡も見られた。
24日、北緯 76°15'。6月7日以来つねに水平線の上を回っていた太陽が沈んだ。一行は夏の終わりを実感した。29日、厚い霧が海面に濃く立ち籠める中、大きな湾口を見つけた。翌日、霧が晴れると湾を挟む陸地が見えて、その間は45マイルと判断された。海流はなく、進路には山脈が見えて、あまり見込みはなさそうだったが湾内に進入した。
31日午後
3時、短い時間だが視界が晴れ、イザベラ号は湾奥を望んだ。7マイルに渡って一面の氷で埋まり、中央を南北に伸びる鋸状の山脈があった。クロッカー山脈と名づけた。その南西の氷の張った凹入部をバローズ湾とした。北西の深い湾入はバフィンが記録したランカスター入り江の緯度に精確に一致した。半時間後には再び濃い霧に包まれたが、ロスは入り江が行き止まりであると確信して転進し、8マイル後方を追っていたアレキサンダー号に合流した。翌日は湾口の陸地に上陸して領有宣言を行い、博物標本を採集した。
ロスは航海指令書で、北米大陸の北岸、特に北緯
72度あたりで北西航路を探索するよう命じられていたが、これを果たしたと考えた。そして北西航路はもっと南方に見つかるだろうと期待して、南に向かう指示を出した。
船隊は南進して探検を続け、新しい地名を書き込んだ地図を作成しながらバフィン湾からデイヴィス海峡に入った。所々で上陸して地磁気を測定し、標本を採集した。 18日には北緯 66°50'、かつてジョン・デイヴィスが記録したウォルシンガム岬と思しい陸標を南に望み、冬の足音を聞きながら更に南下して、 10月1日に(バフィン島南部の)カンバーランド海峡(実は湾)まで来た。指令書が探検を打ち切ってイギリスに引き返す最終期限とした日である。ロスはハドソン海峡のレゾリューション島の経緯度を計測しようと考え 4日にこれを完了、進路を南から東に変えてフェアウェル岬を越えて帰国の途に就いた。10月30日、シェトランド島に入港、11月14日、ロンドンに帰着。
◆こうしてロスの探検隊はグリーンランド西岸や北米北東沿岸の地誌にいくつかの貢献をし、バフィンの航海記録を証明したが、北西航路への入り口を見つけることは出来なかった。探検を計画したバローは不満であったが、驚くことに不満の声は探検隊の内部からも上がった。アレキサンダー号を指揮したパリーらが、ランカスター入り江の調査は不十分だと言い出したのである。ロスはこの入り江の奥が氷で塞がり、遠方に立つクロッカー山脈を見て引き返したのだったが、後方にあったパリーは、自分たちは山脈を見ておらず進路に支障があったとは思えない、と報告した(ロスの「発見の航海」にはアレキサンダー号の乗組員も山脈を確認した、と述べてあるのだが)。
バローをはじめ省内の北西航路探検熱は未だ冷めやらず、その年のうちに次の探検隊を送る計画が提案された。隊長は弱冠
29歳のパリー。先の探検に参加した地磁気観測の俊才セービンやジョン・ロスの甥ジェームズが加わった。パリーとセービンを除けば
23歳以上の士官は一人もなかった。
1820年5月11日、ヘクラ号とグリッパー号の2隻がロンドンを出港、グリーンランド西岸をサンダーソンホープまで北上し、7月21日、パリー自らクロウズ・ネストに登って見張りにつき、130キロにわたって流氷のひしめく中間流氷原(ミドル・パック)を押し渡った。前年の探検より1ケ月早く、8月初にランカスター入り江に進入した。折から強い東風が吹き、船隊は測深を繰り返しながら順調に西進し、気がつけば西経 83°12'を越えていた。ロスが引き返した地点より遠くまで来たのだ。進路を閉ざす山脈は現れず、群れをなして泳ぐ鯨の姿が見えた。だがその後は極地探検につきものの厳しい自然との戦いとなった。南への深い湾入(プリンス・リージェント海峡)を調べた頃は羅針盤が鈍くなり役に立たなくなった(北磁極に近づいた)。ランカスター海峡に戻り、デボン島の南岸に沿って進み、バロー海峡に入った。8月が終ろうとしていた。さらに西進して(バイカウント・)メルヴィル海峡、メルヴィル島を発見した(この島では後で原住民の小屋が見つかる)。9月4日、とうとう懸賞金 5,000ポンドのかかった西経 110度を越えた。隊員たちは熱狂に包まれた。
しかし彼らの進撃も止まる時がきた。バンクス島の北岸を発見した後で凪になり、厳寒が訪れた。雪あらしの猛襲を受けて東に戻って待避したが、海面にはもう若氷が張り始めていた。船隊はメルヴィル島のハーン岬の少し先の湾で越冬の準備に入った。もちろん覚悟の前で、充分な食糧や燃料を用意してあり、越冬生活のプログラムも考えてあった。隊は高い士気を維持したまま冬を越した。春が来て夏が来た。が船はまだ動けない。8月になって漸く船を封じる氷が離れた。それでも前方の氷の障壁は依然 15mの高さで聳え、とても越えてゆけるものでなかった。やむなく船隊を東に回頭、イギリスに戻ったのだった。
この探検はクロッカー山脈が存在せず、ずっと西まで海が繋がっていることを示した(補記3)。これが長い袋小路なのか、さらに西に続くルートがあるのか、判定は今後に待たねばならない(パリー自身はもっと南を探すべきと考えた)。とはいえバフィン島西岸に豊富な鯨の漁場を発見した。西経
110度線を越え、数々の新しい地理学上の発見をなした。極圏での越冬を上首尾にこなした。世間は彼らを歓呼で迎えた。
パリーは続いて第二回(1821-23)、第三回(1824)の北西航路探検を行ったが、第一回(1819-20)を越えて西に進むことは出来なかった。北西航路への世間の熱は冷め、1827年に懸賞金が取り下げられた。この年、パリーは槍先を変えてヘクラ号で北極点探検に向かい、最北点北緯
82°45'に達した。極点まで 700キロ。この記録は48年間破られなかった。
パリーの三度の北西航路探検に同行したジェームズ・ロス(1800-1862)は、1829-33年の4年間にわたった北西航路探検に副隊長として参加した。隊長は名誉挽回の機会を待ち望んでいたジョン・ロスで、プリンス・リージェント湾(実は海峡)を南下して航路を探るのを目的とした。遠征はどちらかといえば私的なもので、ロンドン市長フェリックス・ブースの資金援助を受けて外輪蒸気船ビクトリー号が採用された。だが蒸気エンジンの信頼性は低く、ただの帆船と変わりなかったという。この遠征でジェームズは北磁極発見の功を遂げた。ビクトリー号は氷海に掴まり、隊は3度の越冬をした後、前進をあきらめて船を捨て、さらにもう一冬を越してボートでランカスター海峡に脱出した。そしてかつてロスが使った古い船、今は捕鯨船となったイザベラ号に救助された。バフィン島の西岸海域は捕鯨船の押し寄せる場となり、イギリス捕鯨の絶頂期を演出していたのである。
後にジェームズは南極探検隊の隊長となって、1839年から43年にかけて三度の航海を行う。エレバス、テラーの二つの火山を発見し、ロス海に入ってロス氷床を発見した。最南点南緯
78°09'30" の到達記録は58年間破られなかった。
◆1818年のバカン大佐の北進隊で副官を務めたジョン・フランクリン大尉(1786-1847) は、1819年から22年にかけて陸上探検隊を指揮して北米大陸の北岸を調査した。ハドソン湾会社の社員の大きな支援があって初めて出来たことであったが、この会社自体は探検にまったく乗り気でなかった。独占していた狩場が植民地化されると考えたからである。ともあれ、フランクリンはコッパーマイン川を河口まで下って、そこから西方へ800キロに及ぶ海岸線測量を遂行した。続く1825年から26年には、マッケンジー川を河口まで下って、ベーリング海峡の方へ640キロにわたって沿岸調査を行った。ロスやパリーらの航海とこれらの陸上調査によって、北米大陸の北の輪郭はかなりの範囲が浮かび上がってきた。
しかし1820年代の終わり頃には北西航路の困難と危険は明らかとみられ、海軍省をして新たな船隊の派遣を長く渋らせた。一方、ハドソン湾会社のディーズ、シンプソンらは社の難色に関わらず、北米の地誌に新たな情報を加えてゆき、30年代の終わりにはビクトリアランド(ビクトリア島)やキングウィリアムランド(キングウィリアム島)の南岸が地図に載って、空白部をさらに狭めた。ただブーシア半島の地理は未決のまま残った。
1844年の冬、バローはもう一度、北西航路の探検案を提出した。蒸気船の時代が到来しつつあり、舷側の重火器を外して取りつける外輪駆動に代わってプロペラ推進が、サー・パリーの下で実現されようとしていた。極地探検はその試験航海と乗組員の熟練にうってつけと主張された。イギリスが樹立した南極圏最南点到達に比肩する偉業を北極圏でも達成すべしとの主張もあった。科学への貢献や国威発揚が説かれた。要するにバローや北極探検派はここを先途とあらゆる条理に訴えたのである。王立協会の支持もあった。
こうして南極で実績を上げた軍艦テラー号とエレバス号が選ばれ、改装・強化作業が進められた。鉄板で覆われた船首、温水暖房の船室、20馬力の蒸気鉄道エンジンにスクリュー・プロペラ。3年分の食料と燃料。乗組員
134名。
ジェームズは隊長を打診されたが、夫人との約束を守って年齢を理由に辞退した。代わりに選ばれたのは
15歳年長のフランクリンで、こちらはむしろ夫人の方が乗り気だったという。(ジェームズやパリーは、フランクリン夫人に頼まれて譲ったとも言われる。)
1845年の春、探検隊は楽観的なムードの中を出港した。ところが彼らからの通信はディスコ島まで随伴した輸送船に託された
7月12日付の手紙が最後となった。この月の終わりに艦隊がランカスター海峡に入ったことは確実で、ある捕鯨船の船長が彼らと会話をしていた。氷山に舫った様子も目撃されていた。しかしその後の航跡は何も分からなかった。最初人々はあまり心配しなかった。越冬して、翌年には予定通りベーリング海峡に姿を現すと思っていた。事実は誰一人戻ってこれなかったのだが。彼らはすっかり消えてしまった。
フランクリン隊の失踪は
19世紀半ばの、いや極地探検史上の大事件に発展した。二冬を過ぎると遭難が懸念され、48年から捜索が始まった。彼らを探して極圏を往来した捜索隊は以来
20年間にわたって、その数 40に上った。その中にはジェームズ・ロス隊やジョン・ロス隊も含まれる。長い長い物語なので詳しく紹介出来ないが、フランクリン隊の消息は徐々に判明していった。1854年には隊員の日記の一部が発見され、59年にはやはり日記によってフランクリンの死亡が確認された。キングウィリアム島の原住民への聞き取り調査が
69年に行われ、野営地が発見されて悲劇の全容が見えてきた(補記4)。そしてこれら一連の捜索活動の副産物として、北米沿岸の地誌が完成され、北西航路が明らかになったのだった。
◆失踪したフランクリン隊、その捜索を行ったマックルーア隊やコリンソン隊は、北西航路を海と陸とで繋ぎ合わせ、15世紀末カボット父子以来の航路探検はここに一応の決着を見た。仮説は現実となったのである。しかし船舶による完全航海が行われたのは20世紀に入ってからのことで、1903-05年にかけて、ノルウェーのロアール・アムンセンがガソリンエンジンの小型船ヨーア号 47トンに乗って初めて達成した。
北西航路とは北米大陸の北岸または北側の島嶼群の間を抜けて北大西洋とベーリング海峡とを繋ぐ海廊の総称で、ランカスター海峡(あるいは南のハドソン海峡)からボーフォート海までは、どのルートであろうと航行出来る限りは北西航路とみなされる。実際は夏でも氷で塞がった海峡や湾が多く、完全通行はきわめて困難なため(ひと夏で通り抜けるのが困難なため)、商用的に利用されることはなかった。
上図は
NASA による 2013年8月の衛星画像をアレンジしたもので、北西航路のいくつかを西回りに図示してある。
19世紀に最初に確認された北西航路は、 1819年にパリーが西向きに通ったランカスター海峡からバイカウント・メルヴィル海峡までと、
1850年にマックルーアがバンクス島東岸とビクトリア島西岸の間に発見したプリンス・オブ・ウェールズ海峡とを繋ぐルートである。マックルーアはボーフォート海から入ってこの海峡を北進し、ほぼ通過したのだが、あと一息でメルヴィル海峡に入ることが出来なかった。越冬した翌夏も状況はよくならず、南に引き返してバンクス島の西側を回った。そして北岸に出てマックルーア海峡を発見した。これが第二の北西航路であるが、やはりメルヴィル海峡に進むことは出来なかった。結局
1853年の春、東からアクセスした探索隊に救助され、船を捨てて橇で通過した。
第一のルートは 1944年にカナダ警察(RCMP)のヘンリー・ラーセンが極地船サン・ロック号で通過している。北西航路がひと夏でクリアされたのはこれが初めてだった。1969年には砕氷船に先導された石油タンカー
SSマンハッタン号が通過した。
第二のルートは 2001年に砕氷船カピタン・クレブニコフ号が通過している。
マックルーア海峡は北極海からの多年氷が押し込んでくる難所で、発見以来つねに厚い氷壁で塞がっていたが、2007年夏に氷のない海面が開けて、短期間ながらランカスター海峡まで海路の通ったことが衛星写真で確認され、ニュースになった。マックルーア海峡〜バイカウント・メルヴィル海峡〜バロー海峡〜ランカスター海峡と繋がる幅の広い海廊(第二のルート)は、今日パリー海峡と総称される。
2012年には帆船ベルゼブブ号がひと夏の間にパリー海峡を東から西へ通過したという。約
2,400km の行程である。
アムンセンがヨーア号で通行したのは次のルートである。北大西洋からランカスター海峡に入り、バロー海峡を通ってピール海峡を南に下る。フランクリン海峡を抜け、キングウィリアム島の東側を回り込んで(ジェームズ・ロス海峡、レー海峡、シンプソン海峡)、北米大陸沿岸沿いに西へ進み、ボーフォート海に抜ける。この大陸沿岸ルートは海峡幅が極端に狭まる箇所、小島や浅瀬が連なる瀬戸がいくつもあり、当時の水深は浅いところでわずか1mしかなかったという。小型のヨーア号は通れたが、一般の商船や軍艦にはとうてい航行不能だった。上の画像はこのルート上の氷がはっきり開いており、青い海面が確認出来る。
なお、ボーフォート海からは大陸北岸を西進し、バロー岬を回ってベーリング海峡を抜ければ北太平洋である。
今日、レー海峡中央部の水深は 5〜18m
と、またコロネーション湾からアムンゼン湾に抜けるドルフィン&ユニオン海峡の瀬戸のいくつかは水深
10m 未満と報告されている。喫水 10m以上の船舶の通行は依然、困難ないし不可能と考えられる。
キングウィリアム島の東側は小島や浅瀬の多いジェームズ・ロス海峡、水深の浅いレー海峡、海峡幅が3キロしかないシンプソン海峡と難所が続く。代わって西側を抜けるルート(ラーセン海峡〜ヴィクトリア海峡)が考えられるが、ヴィクトリア海峡は潮流がぶつかり合う場所で氷況は大陸沿岸ルート中でもっとも悪い(らせん形の危険な氷が生まれるという)。海峡の南端ではロイヤル・ジェオグラフィカル・ソサエティ島が隘路を作っている。
大陸沿岸ルートのバリエーションとして、サマセット島の西のピール海峡の代わりに東のプリンス・リージェント海峡〜ベロー海峡を通ってフランクリン海峡に繋ぐルートもある。1940-42年にラーセンがサン・ロック号で通行した。これは初めての東回り完全航行だった(アムンセンに次ぐ2番目の完全航行)。ただしベロー海峡はきわめて狭い。
この他、ハドソン海峡からフォックス海峡〜フューリー&ヘルカ海峡〜ブーシア湾〜ベロー海峡を通ってフランクリン海峡に繋ぐルートもあるが、フューリー&ヘルカ海峡は難所中の難所のため、普通は選択肢と考えられない。
大陸沿岸ルートの東側は今日、北西航路観光クルーズ船の航路となっている。しかし上述の通り、喫水
10m
以上の船舶の運行に適しているとは言い難い。一方、パリー海峡とプリンス・オブ・ウェールズ海峡は水深が十分にあって、今後この海が大きく開くなら中型〜大型貨物船の通行が視野に入ってくる。実際、NASAの2016年8月の同地域の航空写真を見ると、これらの海峡をほぼ通して青い海面が出現している。16世紀初にイギリスの冒険商人たちが夢見た幻の商用航路が、5世紀を経て実現するのであろうか。
補記1:イギリス海軍による最初の科学的探検は 1699年のパラモア号による南大西洋での地磁気観測で、宮廷天文学者のエドモンド・ハレー(1656-1742)が指揮をとった。航海を知らない人物が隊を率いる愚を海軍は肝に銘じて懲りたといわれる。(戻る)
補記2:グリーンランド東海岸の地理を初めて明らかにしたのはスコーズビーであった。1822年、新造船バフィン号によって行われた調査には 62歳を迎えた父のスコーズビーもフェーム号で参加し、ほかに多数の捕鯨船が同行した。スコーズビーは北緯 69° 30' から 72° 30'に至る島の沿岸を1,300キロにわたって航行し、きわめて精確な地図を作成した。東海岸には標高1,000〜2,000mに至る山脈が連なっていた。数か所に上陸して鳥類や昆虫類を観察した。またトナカイの角やほかの動物の骨、橇の一部や家具、矢じりのついた矢などを発見した。最近まで原住民が生活していた証拠だった。海陸における多数の観察は科学的な視点でまとめられ、1823年に「北方捕鯨航海記 −グリーンランド東海岸における精査と発見」として発表された。グリーンランドから帰ってまもなく、ロンドン王立協会の会員に選ばれ、パリ学士院の名誉会員に推された。
北緯 70度あたりにある東海岸の大きな湾入部はスコーズビー入江(瀬戸)の名で知られる。父のスコーズビーは、この湾入はあるいは海峡で、かつてフロビッシャーやエゲデが推測したように(古い地図に示されたように)グリーンランドを二分するのではないかと考えていた。
入江の少し北、北緯 72度あたりの海岸はリバプール海岸と呼ばれる。捕鯨業者の間では
1777年に沖合で大きな海難事故があったことで知られていた。各国から集まってきた12隻の捕鯨船が岸から約60kmのところで完全に浮氷に閉じ込められ、抜け出せなくなったのである。夏が過ぎ秋になるともはや逃れる望みはなく、浮氷とともに漂流するうち、船は一隻ずつ氷圧に潰されて全滅。流氷に逃れたわずかな者がグリーンランド南端のフェアウェル岬付近で救助されたものの、犠牲者は
320名を数えた。鯨捕りやアザラシ獲りの船が命がけて通った海なのであった。スコーズビーはその周辺の海岸線の様子を明らかにして手向けとしたのだ。
これはスコーズビーの最後の航海となった。帰国して妻の死を知った彼は海上生活を打ち切り、心機一転、ケンブリッジのクイーンズ・カレッジで神学をおさめて 1825年に僧職についた。それでも氷海での経験は心に焼きついていたと思われる。後年、失踪したフランクリン隊の捜索が叫ばれた時、彼は極地航海で得た知識を書に披露して、救援促進の意を示した。(戻る)
補記3:パリーの航海によって、クロッカー山脈は存在せず、ジョン・ロスの見間違えということになったが、これはいかにも不可解な間違いであった。怖気づいて理由をつけて引き返したのだと考える者も現れて、ロスはしばらく不遇をかこった。今日では、極地方の特殊な天候によって蜃気楼が生じていたのではないかと考えられている。
ロスは 1829-33年の困難な探検で得た数々の科学上の発見によってナイト(勲爵士)に叙せられ、望み通り名誉を回復した。国会は報奨金を取り消した後ではあったが、4回の越冬を経てほぼ全員生還(死者2名)の快挙と勇気を讃えて、5,000ポンドを授与した。 (戻る)
補記4:テラー号とエレバス号は長く行方不明だったが、2008年にエレバス号、2016年にテラー号の残骸が海底調査で発見されたと報道されている。 (戻る)
補記5:文中でグリーンランドの原住民を指す「エスキモー」は、北極圏に住む先住民を指す言葉で、シベリア、アラスカ、カナダ、グリーンランド等に住む人々の総称とされている。カナダ・グリーンランドの先住民族を特定的に指すとき、イヌイット(イニュイ)の語が用いられる。さらに区別するとグリーンランドに住む先住民を現地ではカラーリットと呼ぶという。本文では昔からの呼称(19世紀の探検記録でも用いられている呼称)としてエスキモーを優先的に使用している。
補記6:16世紀末から 17世紀初はイギリス、オランダ、デンマーク等が入り乱れて北方の海域に向い、捕鯨やセイウチ猟の収穫を競い始めた時期である。1596年にバレンツが発見したスピッツベルゲン島もその舞台の一つだが、イギリスの港町ハルの船を率いたトーマス・マーマデュークは
1609年にハーツイーズ号(※ 1612年にはジェームズ・ホールやウィリアム・バフィンらがグリーンランド島西岸で銀鉱探しをする船である)でスバールバル諸島(のいずれか)を発見したと伝えられている。ハルの船乗りたちはこれを理由に周辺海域での漁業権を主張し、ロンドン商人の船やオランダ船と対立した。
スピッツベルゲン島の東にあるエッジ島(エドゲオヤ)の西側の海岸はマーマデュークに因んでデューク湾と名付けられ、オランダ人やデンマーク人は訛ってディスコ
(Disco/Disko)湾と呼んだ。
やがてオランダの捕鯨船団がデイヴィス海峡を漁場とした時、彼らは東グリーンランド(スバールバル諸島)で馴染んだ地名を新しい漁場にも当てはめた。ディスコ島・ディスコ湾はそのひとつと言われる。1740年代の地図にはすでにディスコ島の名が載っている。ハルの捕鯨船は新しいディスコ湾にも出没し、ロスの探検記に名を留めている。 (戻る)
このページ終わり [ホームへ]