関連ページ
1.
ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見(ノース人植民地)
2.16世紀ヨーロッパの北方世界認識 (当時の世界・極地方地図)
3. 北西航路と北西鉱石(マーティン・フロビッシャーの探検航海)
4. ヨーロッパ人によるグリーンランドの発見2(ジョン・デイヴィスの探検航海)
5. 銀鉱の島・鯨漁りの海 (ジェームズ・ホールの探検航海・捕鯨略史)
6. 18世紀デンマークのグリーンランド植民(金鉱、ハンス・エゲデの伝道)
7.
ニューベッドフォードの捕鯨博物館(アメリカ捕鯨の台頭と衰退)
8. 19世紀イギリスの北西航路探検 (ジョン・ロスの航海 19世紀以降のイギリスの航路探検)
◆グリーンランド島の沿岸部には大昔から人が住んでいたという。紀元前後、彼らは北米大陸の北東の凍てついた島々から氷結した海峡を越えてやってくると、住みやすい土地を求めて南下し、中西部のディスコ島周辺やさらに南部のフィヨルドの奥に集落を作った。
一方、10世紀末頃になるとアイスランドに入植したヨーロッパ人(ノース人)が西の氷海を船で渡り、島の南西部に新たな入植地を作った。グリーンランドの名の起こりである。彼らはキリスト教化され、やがてノルウェー王国の支配下に入った。そしてノルウェーの交易船が定期的に行き交うようになったが、
15世紀に入る頃に往来が絶えた。今日のヌーク周辺とカコトック周辺にあった二つの植民地のうち前者(西植民地)はその以前から廃れていたのだが(スクレリングという蛮族の攻撃を受けたと伝説にいう)、後者(東植民地)はいわば本国から見放された形で失われたようだ。その後ノース人がどうなったか、ヨーロッパには知る者がなく、西方の島の記憶はノルウェーの炉辺で語られる一幕の夢物語に埋もれていった。
ただ後世の遺跡調査の示すところでは、ノース人植民地はスコットランド文化圏と交渉を持った時期があったようだという。
16世紀の後半、イギリスの航海者たちはカタイ(中国)への最短航路を求めてノルンベガ(※北米大陸の北東沿岸地域)北方の海に乗り出し、グリーンランド南西部に住む原住民、やがてエスキモーと呼ばれる人々と接触した。そこはかつて西植民地のあった土地だったのだが、ノース人の姿は見られなかった。
少し遅れて 17世紀前半にはデンマーク=ノルウェーの探検者がほぼ同じ地域のエスキモーと接触した。またデイヴィス海峡を漁場とするオランダの捕鯨業者も交渉を持った。いずれも夏のシーズンに訪れて、たまさか交易(物々交換)を行ったという程度のことではあるが。
しかし 18世紀初、ハンス・エゲデ(1686?-1758)によって島への入植が始まると、エスキモーとヨーロッパ人との接触は恒常的なものとなった。島の領土化と共にキリスト教の伝道も行われた。エゲデの目的は本来、失われたノース人の発見(カトリック教徒の救済)を旨としたが、ほどなくその空しいことを悟ってエスキモーの教化に眼を向けたのだった。
入植の初期にはヨーロッパ人との接触がエスキモーに破滅的な災厄をもたらした。免疫のない彼らの間で疫病が何度も猛威を振るい、18世紀末にはすっかり人口が減っていた。
その頃デンマークの交易拠点は北はディスコ湾あたりまで広がり、この地のエスキモーを使った捕鯨やアザラシ猟が行われた。ディスコ島南岸のケケルタルスアクは
18世紀中頃から捕鯨船が停泊に利用した良港で、1773年に入植地が作られている。
19世紀初になるとヨーロッパ人の視線はグリーンランド北西部にも伸びた。ナポレオン戦争が終わり余剰となった船舶・軍人を使って、イギリスの北西航路探検が
2世紀ぶりに再開されたのだ。それまで知られなかった極北の地に孤立したエスキモーの存在が記録され、メルヴィル湾岸はイギリスの新たな捕鯨拠点となった。
◆さて、鉄の話に進もう。
イギリスのジョン・デイヴィスの探検隊が島の南西部(ギルバート入江、後のゴットホープ植民地/ヌーク付近)でエスキモーに出会ったのは
1585年のことだった。彼らの眼にエスキモーは太陽を崇拝する異教徒で、毛皮を着て犬橇を引き、原始的なあばら家に住んで文明に浴しない人々と映った。火と煙で妖しげな呪術を行い、すぐに人の物を盗む。一方、陽気で単純で悪意を持たない。ナイフや釘などの鉄製品をことのほか欲しがるので、彼らが持っているアザラシの毛皮や食料やイッカク鯨の角などを、鉄との交換で有利に入手することが出来た。エスキモーにとって金属は貴重品であるらしかった。彼らは鉄を使った素朴な道具を持っていたが、製錬して得たわけでなく、おそらく昔ノース人が住んでいた頃に交易で手に入れる機会があったのだろうと想像された(※デイヴィス自身はかつてのノース人植民地のことを知らなかったようだ)。
それから1世紀半が過ぎ、1721年にデンマーク=ノルウェーの植民地が同じ場所に作られた時には、彼らはヨーロッパ人が持ってくる鉄にすっかり馴染んでいた。島に定住したエゲデは後にグリーンランドの地誌に関する報告書を著したが、産鉄については何も記していない。
エゲデは自分が鉱業方面にさして知識をもたないと断っているのだが、この頃までのヨーロッパ人の理解をまとめれば、グリーンランドには鉄資源が知られていない、プリミティブな住民は冶金技術を持たず製錬して金属を得る術を知らない、ただ白人がもたらす鉄をありがたがって利用している、ということになろう。ちなみに入植者たちにしても、生活に必要な金属材は本国から運ばれてくる物資に頼りきりだった。
一方、18世紀前半のグリーンランド島西岸海域(デイヴィス海峡)はオランダ人による捕鯨が最盛期を迎えており、彼らの振る舞いは時にデンマーク人入植者の癪の種であった。MR誌のグリーンランド特集号(Vol.24
No.2, 1993)に、「1730年に現地のある管理人が『オランダの捕鯨船が鉄の転石(boulder:大岩)を勝手に持ち去った』と報告している」との言及がある。
文字通りに解釈すれば、鉄の巨塊が海岸付近に転がっており、そのことを知っていた白人たちがあったようだ。原典に行きあたっていないので具体的な場所は分からないのだが、同誌の記事はディスコ湾周辺にフォーカスしたものである(この地域で塊状及び細粒状の自然鉄を産するため)。
ただ当時はまだデンマークの拠点はこの地域になかった。ディスコ湾の南部にクリスチャンハーブが築かれるのは
1734年のことである。従って報告者はゴットホープ(現ヌーク)周辺、またはその北方シシミウトまで(北緯66°48'のニピサット島に交易拠点があった)のどこかの管理者だったと思しい。かつてはそのあたりでも自然鉄/隕鉄が転がっていたのかもしれない。
ちなみに、エゲデはシシミウト付近のアメルロク・フィヨルド(ラメルズ・フィヨルド)に島の東岸へ抜ける伝説の海峡の入口を探って果たせなかったが、後に出版された地誌に付された地図には、その海峡はディスコ島の南に大きく開いた湾奥にあるように描かれている。想像の産物だが、フロビッシャーの航海以来の伝統的な地理観を踏襲したものだ。
cf. 18世紀デンマークのグリーンランド植民
18世紀半ばまでにはデンマークの入植がディスコ湾に及び、湾での漁業権を巡ってオランダと砲火を交えて対立するが、オランダも鯨やイッカクの好漁場をみすみす放棄するはずがなかった。cf.
ロスの航海
ともあれこれ以降、グリーンランドと欧州とを結ぶ定期船によって、同地の物産や博物標本が市場に入ってくるようになった。その中にディスコ島産の自然鉄があったことは、
1769年に描かれたクリスチアン・ルドヴィッヒ・スティーグリッツ(1724-1772)のコレクション目録に明らかだ。スティーグリッツはラピプチヒで法務官を務めた人物で、博物学を趣味としていた。鉱物標本の個人コレクションを持ち、お気に入りの標本
65点を選んでモリノという画家に実物大の細密彩色画を描かせた。そのうちの一点に件の標本があるのだ。
絵を見る限り、ヒビ割れの多い母岩に鉄とみなされる暗色の小片がまるで苔か藻類が絡みつくような形で突き出している。母岩中に網状(〜シート状)に挟まっていた鉄が引き千切れて、若干の風化作用を受けた趣きがある。あるいはひげ銀のように結晶が成長したものか。(現存しているなら、ウィーンの大学博物館か自然史博物館にあるはずだ。)
ちなみに私が見たことのある母岩付標本はたいてい塊状か粒状で、苔状に突き出た外観はかなり特異なように思うが、錆びて薄片状に剥離しかかったものかもしれない。
欧州人にとって 18世紀の後半は、全世界が手を伸ばせば届く領域に収まろうとしていた時代である。ポルトガル・スペインの船隊によって始まった大航海時代から3世紀、新世界の地誌は極地方を除いて漸く明らかとなり、植民地の拡大によって豊富な物産と富とが恒常的に欧州に流れ込んできた。
一方でフロンティアはまだ数えきれないほどあって、旅行家や探検家は活躍の場に困らなかった。クックの世界周航に博物学者が随行したのはその象徴的トピックといえる。この時代の啓蒙思想の拡がり・科学の発展・博物学の流行は、遠くて近い未知の世界との接触と新たな知識の発見とによって絶えず刺激を受け、活力を吹き込まれていたといってよい。
神聖ローマ皇帝のフランツ一世(1708-1765)を始め、各国の王侯・貴族はそれぞれの(私的)財力のままに珍奇物を蒐集して陳列室−「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」を造営した(cf.
ウィーン自然史博1)。
いわゆる教養人、富裕な商人らもこれに倣った。世界中に調査団や採集人が送り出され、欧州には博物標本の流通業者が現れていた。たいていは私商会であるが、1765年に創設されたフライベルク鉱山学校は当初から鉱物標本の売買を仲介したもので、19世紀半ばには欧州最大手の鉱物標本商と目される(cf.
No.756
トパーズ)。
グリーンランド産の博物標本は主に歴代のグリーランド貿易会社やその関係者によって市場にもたらされた。後に特産品として知られるイヒドゥートの氷晶石は、王立公社(KGH社/1774年設立)がコペンハーゲンに持ち帰った標本から
1795年に発見された(cf.No.684
補記1)。当時は大変珍しいものだったようだ。
18世紀、「自然鉄」は世界各地で発見され、欧州のコレクターや研究者に標本が渡っていた。もっとも有名なのはパラスの調査団によって発見され、サンクト・ペテルブルクの珍奇館に収められた「シベリアの鉄(パラスの鉄/クラスノヤルスクの鉄)」だろう。これはスポンジ状の鉄塊で、巣の部分にかんらん石が詰まった奇妙な物質だった(パラサイトと呼ばれる石鉄隕石)。
ムクの鉄塊としてはアルゼンチンで発見された「鉄のテーブル」、南アフリカの植民地からもたらされた「グッド・ホープ」などがあり、セネガル(シラチク 1716年)やメキシコ(トルカ
1776年)でも発見されていた。
ただしこれらは周囲の地質環境から孤立した産状で見出されたもので、火山からの噴出物(飛来物)とか落雷による熱で還元されたもの、あるいは古代の製錬場から出た人造物とも考えられていた。また、この種の鉄塊には原住民の間で天から降ってきたと伝説されるものも含まれた。実際ここに挙げた各地の「自然鉄」は
19世紀初にはいずれも天降鉄(隕鉄)と考えられるようになる。
このあたりの事情は「隕石の話」、「隕石の話2」に詳述したが、簡単にまとめると、18世紀中頃の科学界は隕石(天降石)の存在をありえないこととしていた。1794年にドイツのクラドニが「シベリアの鉄」などの自然鉄を考察して地球外起源説を唱え、その後数年間で隕石の目撃証言が相次いだ。1802年にイギリスのハワードらがこれらの石に共通の性質があることを示した。そしてフランスのレグルで落下が目撃された隕石について科学的な調査が行われたことで、クラドニの説が広く受け入れられていったのだった。
ただ当時は隕石が地球の上空で生成したものか、宇宙空間〜天体から飛来したものか判然せず、むしろ上空生成説が有力視された。
隕石に共通する特徴は表面に溶融履歴を示す黒っぽい被殻があること、延伸性の鉄を成分に含むこと、その鉄には数%〜10数%のニッケルが含まれることなどだった(※一般に
4-35%程度で、5-15%のものが多い)。また隕鉄の切断面をエッチングすると(または加熱して酸化させると)、ウィドマンシュテッテン像(構造)と呼ばれる独特の模様が現れる(1808年)。周囲の地質環境と連続性がないことも特徴のひとつである。
翻って、一般に鉄鉱石は地上では酸化物や硫化物、炭酸化物といった化合物の状態で産し、金、銀、銅のように単体で見出されることは珍しい。鉄鉱石から製錬された鉄が数%のニッケルを含んでいることも普通はない。(ニッケルは
18世紀半ばに発見された元素で、定量分析は 18世紀末に可能となった。)
18世紀に自然鉄とされた標本の多くは上述の特徴を持っていたことから隕鉄とみなされるようになったが、スティーグリッツの標本が同様に再検討されたかどうかは分からない。ただ彼の残した鉱物画を見る限り、鉄は母岩と密接に交わっているようで、地上起源の産物であることを強く匂わせていると言えよう。
グリーンランド産の鉱物標本を専門的に扱った草分けに、ドイツ人の標本商 K.L.ギーゼッケ(1761-1833)がある。 1806年から13年にかけてグリーンランド島に留まって大量の鉱物標本を採集した。折しもナポレオン戦争の最中で、中立を保ったデンマークはフランスからもイギリスからも敵視されていた。1807年に彼が本国に送った採集品を載せたデンマーク船は、そのあおりで海路フランス私掠船の襲撃を受ける。私掠船はさらにイギリス船に拿捕された。積荷の一部はスコットランドで 1808年に競売に付され、おかげで多くの鉱物学者がグリーンランド産の標本を調査する機会を得た。ユージアル石やアラナイト(褐れん石)などの新鉱物が記載され、伴ってギーゼッケの評価も高まったという奇妙な成り行きである(cf.No.678)。
彼の採集品目録の中に、
Arveprindsens Eiland (アーブプリンズ島/アパレンス島)の泥炭地で採集した「大気中で錆びない可鍛性の鉄のカケラ」がある。日記では言及されていないが、1808年に犬ぞりでディスコ島を探査したときのものとみられている。
コペンハーゲン博物館に彼が採集したと伝わる 410gの鉄塊があり、J.ロレンセン(1883年)は、まるで軟らかい塊を手でこねたみたいな奇妙な外観をしていると描写した(※指で押して出来たような凹みのついた表面の形状は隕鉄に典型的な特徴の一つであるが…)。標本に関するロレンセンの分析は後で記す。
◆これらの、おそらく当時は一部の博物家・研究者間でだけ知られたと思しい産品を別にすると、グリーンランド島の鉄(自然鉄)が初めて世間の耳目を集めたのは、イギリス海軍による
1818年の北西航路探検によってだったろう。(探検の詳細は先行のひま話を参照。)
隊長のジョン・ロスは島の北西部、ディスコ島から 900km北方のヨーク岬周辺の土地アークティックハイランズ(極圏高地)で孤立した原住民たちと出逢った。彼らは鉄器を使っていた。ロスらが聴き取ったところでは、ソワリック(鉄の山)という場所にいくつかの鉄の塊があるという。山と一体になった(埋もれた?)塊が一つあって他のものより硬いこと、他のものは地表にむき出しになった大きな塊でそれほど硬くないため強靭な石を使って切り出せること、切り出した鉄片を叩いて
3cmほどの大きさの平たい楕円形にすること…。彼らの道具はこうして作った刃を骨器の先端に挟んだものだった。
あいにく鉱石のサンプルは入手出来なかったが、ロスはエスキモーの素朴な鉄器をイギリスに持ち帰った(今も保管されている)。成分が分析されて、数%のニッケルを含むことが分かり、隕石(天降鉄)から作ったものと推測された。折からそういう判定を下しうる時代背景にあったのだ。
その後、ソワリックの鉄産地はヨーロッパ人の関心を惹き続けた。グリーンランド探検家で直接・間接に産地発見を考えない者はなかったといってよい。1840-50年代にはこの山に到達しようと二つの遠征隊が計画されたが、いずれも収穫を得なかった。一隊は現地に近づくことが出来ず、一隊は出発さえせずに終わったという。この地はやがてサビシビクの名で参照されるようになる。
アークティックハイランドのエスキモーは南方に人が住むことを知らず、中〜南西部のエスキモーとの間に交渉はないらしかった。従ってゴットホープやディスコ島周辺の原住民がソワリックの鉄を利用しているとは(当時は)考えられなかった。
それから 30年ほどが過ぎた頃、ディスコ湾周辺で採集された鉄塊が欧州人の目に触れた。
1848年から51年にかけてヘンリク(ヒンリヒ)・ヨハネス・リンク
(1819-1893)が
グリーンランド西部の地質を調査した折、現地人から入手した標本の中に、ディスコ島対岸の(グリーンランド島本土の)ニアコルナクで採集された重さ
10kg
の鉄塊があったのだ。アノントク川が流れ込む海岸近くの小礫の散らばる平地に転がっていたという。冬は冠雪し、夏場には融水で水びたしになる土地のため、リンクは詳しい調査をすることが出来なかった。
標本はコペンハーゲンの博物館に届けられ、鉱物学者 J.G.フォルクハマー(1794-1865)は炭素分を多く含んで硬く脆いこの鉄を、隕石質の白色鋳鉄だと判定した(1854年)。エッチングにより通常とは異なるウィドマンシュテッテン像(のような模様)が現れた。今日、「ニアコルナク」、「リンクの鉄」等と称されている。
余談だが、リンクという人はグリーンランドで長い年月を過ごしたデンマーク人で、地質学者として氷河の研究等に業績を上げる一方、グリーランド貿易や植民地経営に大きな役割を果たした偉材である。
学生時代のリンクは、化学、物理学、薬学、解剖学などを学び、将来の職業について随分悩んだというが、ベルリン留学中に、フリゲート艦ガラテア号による探検航海(1845-47)に地質学者として参加することを勧められて受けた。これはデンマークの国家事業として計画された科学調査のための世界周航で、当時デンマーク領だった南アジアのニコバル諸島への再植民準備も含まれていた。一行はまずインドに寄港した後、1846年1月にニコバル島に到着した。リンクはそのまま島に残って地理学調査に携わったが、熱病(ニコバル病)に罹って衰弱し、5ケ月後にやむなく帰国の途についた。
その後、1848年から51年にかけて、やはり公的事業としてグリーンランドの地質と氷河の研究を行う。その間エスキモーたちと一緒に生活して彼らの習俗に親しんだ。51年にはヤコブスハウン(現イルリサット)に滞在していた。鉄塊が見つかったニアコルナクはその付近の土地である。この遠征によってリンクは、グリーンランド西部の広範な海岸線を地図に描き、氷河の縁部を特定し、地質図を作成した。
いったんコペンハーゲンに戻ったが、王立公社のグリーンランド独占貿易に関わる委員に任じられ、翌年には委員会を代表して再び入島、以来ゴットホープとユリアンハーブの行政官を務める傍ら、地理や氷河の調査を続けた。この間に著した「グリーンランドとその地理の統計的記述」はエゲデの著作(1729)に次ぐ島の古典地誌とされている。1868年、健康上の理由で島を去るが、その後もコペンハーゲンでグリーンランド貿易局長の役職に就き、島と関わり続けた。
リンクの名は今日グリーンランド島北西部の氷河に記念されているが、鉱物学でも
リンク石 Rinkite (現在は セシウム・リンク石)が知られる。
リンクが関わった自然鉄には他にメズフェルト氏から預かったフィスカーネス(現ケケルタルスアスシアート)産の標本がある。ディスコ島から南に 700km、ヌークの南方の土地で、地質環境はディスコ島とは異なっている(玄武岩帯でない)。標本は 1853年にコペンハーゲンの大学博物館に届けられた。加工性のよい(可鍛性の)鉄で、後にディスコ島の北、ウマナック・フィヨルドの湾奥にあるエカリュート(※上のディスコ島周辺地図のイケラサク近く)のエスキモー墓地から発掘された鉄器・素材とよく似た性質と言われる。
◆ディスコ島では 1852年にフォーチュン湾(※現 Killiit、ゴッドハウンから西8kmの入江、捕鯨船が停泊出来た)で約 12kg の鉄塊が物理学者ルドルフによって採集され、コペンハーゲンに送られているが、特筆すべきは 1870年に N.A.E.ノルデンショルドによって報告された 20トン超の巨塊だろう。
スウェーデン系フィンランド人の鉱物学者ニルス・アドルフ・エリク・ノルデンショルド(ノルデンシェルド:1832-1901)は、鉱物学者ニルス・グスタフ・ノルデンショルド(アレキサンドライトやフェナサイトの報告者)の息子。極地探検に輝かしい業績を刻んでおり、世間ではむしろ探検家で通っているかもしれない。
フィンランド鉱山局長だった父の影響を受けて少年時代から鉱物学に関心を抱いていたといい、1849年にヘルシンキの(ロシア)帝国アレクサンドル大学に入学すると化学や鉱物学に熱中した。53年に修士号を取って卒業すると、父のウラル山脈調査に随行し、タギルスク(ニジニ・タギル)の鉄山や銅山を見て回った。ヘルシンキに戻って大学で職を得たが、社交場での政治的発言が問題にされて解雇、
57年にスウェーデンのストックホルムに出た(もともとノルデンショルド家はスウェーデンの古い貴族の家柄)。
ほどなく地質学者オットー・トレルのスヴァールバル(スピッツベルゲン島)調査への同行を打診されて
58年の探検に加わった。石炭層の化石標本を多数採集した。戻るとヘルシンキ大学へ復職を求めたが、キャリアアップは絶望的で、60年に再びストックホルムに出てスウェーデン自然史博物館の鉱物学部門の管理職を引き受けた。王立科学アカデミーの鉱物学教授にも任じられた。彼はすでに優秀な鉱物学者として知名で、フィンランド貴族の出自もスウェーデンの学会では申し分がなかった。
61年、トレルの2度目のスバールバル探検に参加。この頃には極地探検に情熱を見出していたらしい。64年、スクーナー船アクセル・トールセン号の指揮官となって3度目のスバールバル探検に赴き、子午線弧の調査を完了する。作成した測量図はスピッツベルゲン島の最初の精確な地図といわれる。
68年、鉄製蒸気船ソフィア号で極地を航海した。北極点を目指して果たせなかったが、北緯81度42分に達して
W.スコーズビーの持つ船舶による最高緯度到達記録(1806年)を半世紀ぶりに塗り替えた。
そして 1870年、グリーンランド島西岸に入る。本格的な極地探検のための準備活動で、氷海に前進を阻まれる船舶に代えて、犬ぞりを使って陸地(氷原)を踏破する可能性を探るためだった。
7月半ば、ノルデンショルドは植物学者のベルグレンと共に、二人のエスキモーを連れてゴッドホープを発ち、2台のそりで内陸の氷原地帯へ踏み入れた。おそらく白人として初めての試みで、島の内陸氷についてはほとんどなんの予備知識もない冒険行だった。ただ彼としては氷原は最初のうちだけで内陸には森林が広がっていると予想しており、さほどの困難はないとみていたのである。(※グリーランドでは内陸の氷帽のへりの斜面を吹き下ろす風が圧縮されて高温になり、沿岸部の氷を溶かして短時間のうちに気温を
5〜10℃まで上げることがある。そのため、昔のエスキモーたちは、内陸には暖かい桃源郷があると言い伝えた。)
果たして氷原に入ると、氷塊で荒れた(乱氷)斜面をそりで進むことは甚だ困難であることが分かった。そりを置いて、持てるだけの荷物を背負って前進したが、翌日にはエスキモーがいなくなっていた。残された二人はなお進んで斜面を登りきり、滑らかな氷原を見るに至ったが、沿岸から
50kmほどの海抜
610mの地点で、巨大なクレバス(氷の裂開)に遭遇した。氷原を流れる大河がクレバスに落ち込んで瀑布をなしていた。また融水の流れ込む小さな湖もあった。岸をまわって迂回路を探ったが、結局引き返すほかなかった。
ちなみに、途中で巨大な氷原に無数の小穴が開いて水が溜まっている、スポンジのような奇妙な風景を目にしたが、ノルデンショルドは天体から飛来した宇宙塵によって穿たれたものと考えた。(※その後、冠氷のない山岳地から強風で飛ばされた礫石が、氷上で太陽の輻射熱を吸収して氷を溶かして沈んでいったと考えられるようになった。)
こうして本来の目的だったグリーンランドの横断行は端緒にして破れたが、一方、ディスコ島の海岸でいくつかの鉄塊を観察したのだった。
その話に入る前に、ノルデンショルドのその後を簡単に辿っておこう。
1872年のシーズンは、エスキモー犬でなくラップ人(サーミ)のトナカイそりを使って北極点を目指す航海に出た。3隻の探検船がスピッツベルゲン島に集合して北方へ舵をとったが、ほどもなく碇泊したモッセル湾の凍結で動けなくなり、そのまま越冬のやむなきに至った。湾からそり3台がはるか遠い北極点に向けて出発したが、1頭を残してトナカイが逃げ出したため、そり1台で引き返した。越冬基地では食料も物資も払底し、壊血病が蔓延した。通りかかった船舶の救援物資で急場をしのいだ。解氷して船が解放されるとすぐに本国に戻った。
この後、彼は北方ロシアの航路や航行技術の調査に数年を費やした。エニセイ河への安定した航路を把握し、またエニセイ河を遡上し複雑な水系を辿って、クラスノヤルスク近くの交易都市エニセイスクにまで達した。
1878年、名高い北東航路探検に赴く。ノルデンショルドを隊長とする探検隊は蒸気式機帆船ヴェガ(織女星)号(357トン)を旗艦に副船レナ号、輸送支援船2隻の構成で、エニセイ河を越えてさらに東方への航路を探った。バレンツ海の東を航海し、ノヴァヤ・ゼムリャ島の南方からカラ海に入った。ロシア最北のクラスノヤルスク地方ディクスン港へ入港したのは
8月6日だった(※73年の探検で発見していた恰好の避難地で、彼の命名)。支援船2隻と別れてレナ号と東進、大陸最北端のチェリュスキン岬を回航した。史上初の快挙である。8月28日にレナ河河口に至った。河を遡上してヤクーツクを目指すレナ号と分かれ、単騎行で東シベリア海を進む。9月28日にチュクチ半島のコリューチン湾に投錨した。ベーリング海峡まで約
210km を余すばかりだった。しかし 2日後、ヴェガ号は流氷につかまって航行の自由を失い、越冬を迎える。流氷から解放されたのは翌年 7月18日で、以降は順調にチュクチ半島を回航してベーリング海峡を通過、ついに太平洋に出た。
1553年にイギリスの船隊(ウィロビーとチャンセラーと)が北東航路を試みてから
326年、前人未到の航海が成就したのだった。一人の死者も病人も出さなかった。
ヴェガ号は(明治12年)
9月2日に横浜港に入って大歓迎を受けた。ノルデンショルドは発足したばかりの東京地学協会の名誉会員に推された。日本には1ケ月ほど滞在して、専門の鉱物・化石標本はもちろん、銅器や武具等の工芸品多数、6,000冊の古書籍を購入した。
10月中旬に長崎港を出て帰路に就いた。インド洋を航行してスエズ運河を抜け、2月初にナポリに寄港、ストックホルムに着いたのは
1880年4月24日だった。
1882年、ディクソン男爵後援の第二次グリーンランド探検隊を率い、ソフィア号でディスコ湾に入った。ラップ人2人を連れて再び内陸氷地帯へ踏み込んだ。前回より深く進入出来たが、18日目、沿岸から
117km、海抜1,500mの高地で2人の隊員と2台のソリを失いリタイアした。スキー術に長けたラップ人だけがさらに
230km地点まで東進して帰還した。予想した森林は見られず、グリーンランドの内陸部はすっかり氷に覆われているらしかった。ちなみに島の初横断はラップ人のスキー術を身につけたノルウェー人
F.ナンセンによって達成される。
翌年、 3世紀に渡って航海者を阻んできたグリーンランド東岸に船を進め、ついに大氷壁を突破して、北緯65度37分のアマサリク(クン・オスカー・ハム/現タシーラク)に上陸した。
これが最後の探検行となった。フィンランドに戻らず、没年までスウェーデンで暮らした。1893年に科学アカデミーの会長に選任された。生涯アカデミーの教授であった。
◆ノルデンショルドは極地探検家として、古い時代の地図や海図に関心を持って蒐集していた。先人の探検記録にも通暁しており、1870年にグリーンランド西岸を訪れた時には、1818年にロスの探検隊が見聞したエスキモーの鉄器と鉄山について、さらに情報を得る機会を探った。実際、ルドルフが鉄塊を得たディスコ島のフォーチュン湾周辺に産地が見つかるかもしれないと考えて調査に行ったのだが、得るところはなかった。
しかし住民のアドバイスで西方のブラーフィエルド(オビファク/ウィビファク/蒼い丘)と呼ばれる海岸に案内され、そこでいくつもの鉄塊が海際に散らばる様子を目にしたのだった。この時代のエスキモーは専らヨーロッパから来る鉄器を利用することに馴染んでおり、海岸に転がる鉄塊から道具を作ることはなかったが、その存在を忘れてもいなかったらしい。オビファクは南に大きく開いた湾口にあって南風がまともに吹きつけるため、たとえ海面が穏やかであってもなお接岸の難しい場所という。おかげでそれまでディスコ湾に進入する捕鯨船や商船の眼を逃れていたのかもしれない。鉄塊は花崗岩や片麻岩の転石を伴って点在し、満潮時には海面下に沈んだ。ノルデンショルドは主だった鉄塊を
12点数えた。振り仰げば、オビファク山の斜面の高みに広大な玄武岩の層が水平に伸びていた。
同行したオベリ博士はヤコブスハウンのファッフ博士からも鉄の標本を得た。
鉄塊から得たサンプルがニッケル分を含んでいることや、ウィドマンシュテッテン像を現すことから、ノルデンショルドは隕石起源の自然鉄と推測した。鉄塊の中には玄武岩を伴って、その中に嵌った恰好のものもあったが、ちょうど地表を溶岩が流れていたその時に隕石が落下したのだろうとみなした。
あるいは玄武岩が溶岩として噴出した時に地中に埋もれていた隕石を巻き込んだのかもしれないが、いずれにしても地球起源説は退けた。その頃の科学界は化合状態でない鉄(単体鉄)として、地球起源のものがありうるとは考えていなかったのでもある。
翌年、持ち帰れなかった巨塊を回収するための遠征隊が派遣された。彼らは荷役器具とダイナマイトを使って多くの標本を採集して帰国した。最大の鉄塊は約
23トンあったといい、現在ストックホルムの国立博物館のコレクションとなっている。建物の屋外に鎮座して、1世紀半を経過してなおその姿を留める。コペンハーゲンの地質博物館には
6.6トンの、ヘルシンキの自然史博物館には 3トンの鉄塊が保管されている。
参加した地質学者
G.ナウコフはトロイリ鉱やユークライトの随伴を指摘したので、隕石説はさらに信憑性を増すようだった。(この2種の同定にはほどなく疑義が挟まれる。)
トルネボームはシュライバーサイトの随伴を報告した。(※鉄・ニッケルの燐化物。普通は隕石中に見出されるが、近年、落雷によって生じたフルグライト(雷管石)中にも含まれているとの研究が出ている。)
一方、鉄塊の産状に疑問を持つ研究者がなかったわけではない。コペンハーゲン大学の地質学者 J.F.ジョンストルプ(1818-1894)はその一人で、発見の報に接した当初から、現場を詳しく調べて総合的に判断する必要があると考えていた。政府筋を通じてスウェーデンの遠征隊(1871年)にデンマーク学者の同行を交渉した。大学地質博物館の助手として働いていた K. J. V. ステーンストルプ(1842-1913)に白羽の矢が立った。
ステーンストルプは鉄塊の表面に鋭い角部や尖ったエッジを持つものがあり、それは隕石(鉄)の特徴に合わないこと、また多くの鉄塊に破砕した玄武岩が付着している部分が観察されることから、ジョンストルプの考えを支持した。
確かにニッケル分を含んでいたし、ウィドマンシュテッテン像を生じたが、それは必ずしも隕石であることの証明にならないだろう、と。ジョンストルプは鉄塊の初生産状−彼の予測では玄武岩中に入っている状態−の発見を期待していたのだが、この遠征ではかなわなかった。
ステーンストルプはジョンストルプの采配によって翌年もディスコ島に渡ってブラーフィエルドを調査し、ほかに周辺各地の玄武岩の露頭
40ケ所を回って標本を採集した。鉄を含む玄武岩の初生鉱床を探したのだが、めぼしい成果はないようだった。ところがわずか1例ではあったが、アスク産の標本の薄片を顕微鏡で観察してみたところ、肉眼では分からない程度の鉄の微小粒が点在していることが分かった。また鉄粒には微量ながらニッケルやコバルト分が含まれていた。これらの事実は鉄が地球起源であることの証拠と彼には思えた(ニッケルを含んでいるからといって必ずしも隕鉄ではないと)。
その後、石墨(グラファイト)や石墨を含む長石類(アノーサイトフェルス)、酸化アルミニウム等が随伴することも踏まえて、ディスコ島の自然鉄は地球起源であると考える学者が増えていった。玄武岩質の溶岩は瀝青質(炭素質)の頁岩の層を貫通して地上に現れたが、その際に石灰分や粘土成分とともに取り込まれた炭素によって、溶融状態にあった鉄成分は還元環境下で固まり、(少なくとも)微粒子状の自然鉄として玄武岩中に分散した、といった生成条件が想定された。
ステーンストルプはその後もアスクに戻って含鉄玄武岩について詳しい調査が出来る機会を待ち望み、1880年に漸く実現するのだが、その前年、ディスコ島の鉄に関わる別の発見をした。上述したエカリュートのエスキモー人墓地の調査で、球状や不定形の鉄を含む玄武岩片を
9点見出したのだ。それらはロスの探検隊が持ち帰った現地人のナイフに似た鉄器類や普通の石器類と一緒にあり、おそらく加工素材と思われた。球状鉄は柔らかく錆びにくく、ロスの描写に合致していた。
ヨーロッパ人から出来合いのナイフを入手する以前には、エスキモーは自分たちでナイフを作っていたのであり、その素材として(隕鉄でなく)地球起源の自然鉄を使っていた証拠だ、と考えた。
そしてロスが持ち帰ったソワリック産の鉄も、さらなる調査がなされるまでは、隕鉄でなく地球起源の鉄と考えるべきだとも述べている。
ちなみにステーンストルプは数百件の現地人の墓を調査してきたが、このように鉄器と加工原石とを埋蔵しているのに出遭ったのは、エカリュートの1件だけだった、という。
翌 80年、彼はアスクにおいて玄武岩の見事な柱状節理の露頭を発見し、その特定の層には至るところ鉄粒が含まれることを確認した。鉄粒のサイズは数ミリから最大で18x14mmだった。大きめの鉄粒は単粒というよりも微小粒の集合体で、断面を磨くと美しいウィドマンシュテッテン像が現れた。もしより大きな塊が見出されれば、おそらく同様の集合的成因によるW氏像が見つかるだろうと考察した。鉄粒には石墨も随伴していた。
アスク以外でも同様に鉄を含む玄武岩の層が見出された。その一つメレムフィヨルドの入り江の北側の陸地での産状はアスクのそれに似ていた。石墨や含石墨長石類(アノーサイトフェルス)を伴い、鋭い縁をもった破片状の、あるいは凝結物のような不定形の鉄が含まれていた。入り江の上流の各地にも、含鉄の玄武岩や分離した自然鉄があった。メレムフィヨルドの南側には普通の見かけの玄武岩があり、一部に溶岩流状の玄武岩が分布していたが、その東方にあった転石にもほぼ含鉄玄武岩から出来たものが見つかった。
ステーンストルプはこれら各地の鉄の性質を総括して、二つのタイプの自然鉄(地鉄)があると指摘している。
一つは炭素分を多く含み、硬くて脆い、錆びやすい鉄で、フォルクハマーが「隕石質の白色鋳鉄」と呼んだ「ニアコルナク」(リンクの鉄)の類。ヤコブスハウンの鉄、ルドルフのフォーチュン湾の鉄、ブラーフィエルド(オビファク)産の鉄がこれにあたる。ギーゼッケのアパレント島産もおそらくそうだという。(※
J.ロレンセンは、ギーゼッケの鉄は内部と外縁部で性質が異なるとしている。)
もう一つは隕石質の(隕石に類似の)鉄で、軟らかく、可鍛性で薄い板状に加工出来、大気中でも錆び難く、炭素を少量しか含まない。ソワリック(サビリック)の鉄、フィスカーネスの鉄、そして彼が発見したすべての鉄がこのタイプにあたる。(※上述の通り、ソワリックの鉄が地鉄であるかどうかはステーンストルプの暫定的な推測。)
同じディスコ島の鉄でも、オビファク産とアスク産とは別のタイプに分類されていることに留意したい。
彼は他にも、ウマナク・フィヨルドのウペルニヴィク島南部クック・アンネルトゥネク、ワイガットのヌック、リッテンベンクの炭鉱近くのヌンゲルート、ノルドフィヨルド等を含鉄玄武岩の産地として挙げている。ただ、いずれも比較的小粒(豆粒ほど)の鉄を含むもので、ノルデンショルドがオビファクで発見した類の巨塊の初生産状は見つからなかった。
結局話は戻ってしまうのだが、オビファク産の鉄塊はごく限られた範囲にのみ発見され、自分が発見した含鉄玄武岩の産状と違っていることから生成条件が同じとは思われない、従ってたぶん(perhaps)隕鉄なのだろう、とステーンストルプは譲歩せざるをえなかった。しかしともあれ、ウィドマンシュテッテン像を示す地球起源のニッケル鉄が存在することが事実として確認されたのだ、と報告を締めている(1884年「ニッケル鉄の存在について−北グリーンランドの玄武岩中にあり、ウィドマンシュテッテン像を伴うもの」)。
ステーンストルプはディスコ島産の自然鉄(地鉄)の研究で知名となり、大英帝国・アイルランド鉱物学会の名誉会員に推された。1883年から終生、デンマーク地質調査局の常任地質学者に就き、1893年にはデンマーク地学協会の初代議長を務めた。彼の名は東グリーンランドの氷河に留められ、鉱物ではステーンストルピンに献名されている。イリマウサーク産の鉱物の記載研究は彼の収集品に拠って進められた。
ちなみにジョンストルプは
1878年、リンクと共にグリーンランド地質地理調査委員会の設立メンバーとなり、同年、科学誌「グリーンランド研究」を創刊した。
以上述べてきたように、スウェーデンの探検隊による自然鉄(隕鉄)の発見は、当初から主にデンマークの学者から疑いの眼で見られていた。デンマークの
J.ロレンセンはステーンストルプらが採集した試料のほか、19世紀初頃からコペンハーゲン大学博物館に収集されてきた多数の自然鉄標本のうち、数点について成分分析を行い、報告をまとめている(1883年)。
オビファク産、メレムフィヨルド産、アスク産。ギーゼッケのアパレンス島産、リンクのニアコルナク産、ルドルフのフォーチュン湾産、メズフェルトのフィスカーネス産、そしてエカリュートの墓中の鉄…。参考までに分析値のうち、ニッケル、炭素成分を抜粋して記しておく。
ロレンセンはオビファクの巨塊はいくつかのより小さな鉄塊が集合して大きくなったものではないかとみた。
スティーグリッツの自然鉄標本についても何か資料があればいいのだが、ステーンストルプや同時代の鉱物学者らで言及した者はいないようだ。
ストックホルムに運ばれたオビファクの鉄塊は、粗い刃状の鉄組織とコーヘナイトの結晶粒(5〜10mm)が顕著に見られ、少量の鉄・ニッケル硫化物とシュライバーサイトを伴う。平均組成は、鉄
91〜94%、ニッケル 2〜3%、炭素 3〜5%との分析値が後に示された(Löfquist
& Benedicks 1941年)。上掲表中の数値よりいずれも高めとなっている。
◆ Wiki
を参照すると、グリーンランドの自然鉄について次のように記されている(2024.12時点)。
「自然鉄(地鉄)はニッケルを含み、ウィドマンシュテッテン構造を示す点で隕鉄に似ているが、ニッケル分は高々
3%で、通常の隕鉄と比べると低い。二つのタイプがある。
タイプ1は、相当量の炭素(1.7〜4%)と、隕鉄にしては控えめな量のニッケル(0.05〜4%)とを含む白色ニッケル鋳鉄で、硬くて脆く、冷間加工が難しい。主にパーライト及びセメンタイトまたはコーヘナイト(cohenite:
鉄・ニッケル系の炭化物)で構成され、トロイリ鉱や珪酸塩を含む。フェライト粒は通常ミリサイズで、組成にはバラツキがあるものの、たいていかなり純粋なニッケル鉄である。セメンタイトで接合されて
5-25ミクロン程度の厚さの層をなし、パーライトを形成する。
2, 3トン〜数十トンに及ぶかなり大きなボルダーとして見出されるが、昔のイヌイット(グリーンランド・エスキモー)には加工が出来なかったし、現代の加工機を使ってもかなり難易度が高い。
タイプ2は、やはり隕鉄にしては控えめな量のニッケル(0.05〜4%)を含むことは同じだが、炭素分が 0.7%未満の可鍛性のニッケル鉄で、冷間加工が出来る。仕上がった加工品の硬さは炭素量とニッケル量に大きく左右される。通常、玄武岩に伴って通常 1-5mm程度の微小な粒状で見出される。玄武岩から分離した粒として産するが、粒同士がシンター状に結合して大きな集合体となることもある。集合体は少量のコーヘナイト、チタン鉄鉱、パーライト、トロイリ鉱を含む。このタイプの鉄をイヌイットはナイフや銛に加工した。玄武岩を砕いてエンドウ豆大の鉄粒を取り出し、叩いてコインサイズの円盤にした。そして骨製の柄に、部分的に重なるように挿入してゆき、刃を形成した。」(※ SPS要約)
19世紀後半にステーンストルプらが提唱した見解を概ね踏襲しているようだ。
今日の鉱物関連書籍を開いても、ディスコ島産の自然鉄は、(ノルデンショルドが観察した巨塊も含めて)地球起源であるとの論調がほぼすべてと見受けられる。上掲のMR誌グリーンランド特集号(1993年)も然り。
20トン超の鉄塊がどのように形成されたかには、いくらか不可解なところがあるにしても。
もっとも議論が収まっているわけでなく、ネット情報を調べてみれば、この問題には解釈の難しい論点がいくつか存在していることが分かる。
自然鉄の起源については、当初の隕鉄・隕石起源説のほか、地球上の含炭素性(または炭酸性)堆積岩と玄武岩との相互作用説、火山起源説(鉄に汚染された溶岩説、硫化鉄からの還元説、マントル物質(鉄・ニッケル)起源説)などがあり、その実現可能性が検討されている。
ワイガット海峡を挟んでディスコ島の北、ヌールソアク半島の玄武岩層は古第三紀(約 6,100〜6,200
万年前)に噴出した溶岩から形成されたと見られるが、1978年にその下部の同時代(古第三紀)堆積層に「ガラス-金属質」の球状組織を持つ岩石層の存在が報告された。このような物質は、隕石の衝突によって発生した地表噴出物から形成されたとの説が有力で、未知の巨大な起源隕石孔(クレーター)があるものと推測されている(火山性の成因説もあるが)。
鉄を多く含む珪酸塩ガラス (FeO 約 35 wt%、NiO 約 3 wt%)は真球にかなり近い形状を持ち、鉄とニッケルとの相対比率は隕鉄一般のそれに近い。球状岩石中の鉄系成分はコンドライトや隕鉄によってもたらされた可能性が高いという。イリジウム、コバルト、ニッケル、銅が異常に高い含有率で含まれている。含ニッケル・スピネルが認められるが、既知の隕石衝突起源のスピネルに極めて類似しており、これらのことから、いわゆる
「K/T境界」(※ユカタン半島のチクシュルーブ・クレーターを形成した、約6,600万年前の隕石衝突により生じたと考えられている異常地層)との比較考察がなされている。
玄武岩層と下部のガラス球状物堆積層との親鉄微量元素の比較は、玄武岩中の鉄が還元により生じたとする主力説に疑問符を投げかけるが、二つの地層がどのように関係するのかは未だ明快な(矛盾を含まない)説明モデルがない。
一方、玄武岩中の炭素の 13C同位体比率は、周辺の地殻炭素貯留層中の 13C比率と幾分ずれがあり、その理由もまた明らかでない。
約めて言えば、ディスコ島及び周辺の自然鉄の成因は解明されたとは言い難く、地球起源であるとしても単純なプロセスによって生じたものではなさそうだというのが近年の観測である。そしてノルデンショルドが説いた(当時の科学界では常識的な見解でもあった)隕鉄説も、あるいは正鵠を射ていた可能性があるという。面白い。 (2024.12.8)
主要参照文献:
・"On the Existtence of Nickel-iron with Widmannstatten's Figures in
the Basalt of North Greenland" by K.J.V. Steenstrup, 1884
・"A Cheminal Examination of Greenland Telluric Iron" by Joe
Lorenszen, 1883
・"Are there sings of a large Paleocene impact, preserved around Disko
Bay, West Greenland ? Nuussuaq spherule beds origin by impact instead of
volcanic eruption ?" by A.P.Jones et al. ,2005
補記:地元エスキモーの言い伝えによると、ディスコ島はもとはもっと南の海にあったが、力強い二人のカヤック乗りが、赤ん坊の毛一本で北方に牽いてきたのだという。ディスコ湾あたりまで来たとき、イルリサットに住む魔女が見つけて、それ以上動かせないように呪文で縛った、と。
補記2:1879年にノルデンショルドが成功した北東航路は、越冬が必要だったため、商業利用はその後も長く夢に留まっていたが、欧州と東アジアとを結ぶルートとして、スエズ運河を経由する「南回り航路」に比べて航行距離を約4割短縮出来る。中東の情勢に影響されないし、シベリア北西部のガス田からの天然ガス輸送路としても有望であることから、ソ連邦の崩壊頃から実現可能性が検討されるようになった。
21世紀に入ると地球温暖化のためか、北極圏の海氷面積が夏季には著しく減少するようになり、2010年代には北東航路も北西航路も全行程にわたって開通する時期が出現した。
北西航路は東側の一部が観光クルーズ船の航路として利用されるに留まるが、北東航路は実際の商用輸送ルートとして脚光を浴びるようになった。
ただしロシアの通航許可が必要で、砕氷船による支援も求められる。輸送実績は
2014年のロシアによるクリミア併合期に低迷したが、その後は右肩上がりに増えていった。しかしウクライナ侵攻を期に再び減少している。
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