196.鉄重石 Ferberite ps.@ Scheelite (ルワンダ産)

 

 

ライン鉱(Reinite) (黒色、表面の黄色粉末は重石華
- ルワンダ、ブガラマ産

鉄重石の板状結晶−中国湖南省揺崗仙(Yaogangxian) 産

 

 

鉄のタングステン酸塩鉱物。板状〜短柱状に結晶するのが本筋だが、時に上の写真のような八面体形状で産出することがある。何故? そう、これも仮晶なのだ。
このテの石は山梨県の金峯山あたりで出た石を明治10年頃(8年?)に来日したライン氏がドイツに持ち帰り、明治12年(1879年)にライン鉱として鉱物界に報告されたのが始まり(cf. ライン鉱)。世界に類のない新鉱物として日本の学者方の注目するところとなったが、それからほぼ20年間、この1ケのほかには彼らの耳目に触れなかった。明治32年、甲府に遊んだ地質調査所の所長が水晶店に同様の黒い重石を見つけ、にわかに再調査の機運が高まった。同所の人が倉沢で標本を多数採取し、ついで年の暮れに乙女坂の水晶坑を現地調査した帝大の神保博士が、「灰重石後の仮晶」と判定した経緯がある。海外には篠本博士から出た標本があるようで、氏のラベル付きのものを見ることがある。

余談だが、明治末頃(35-40年頃)の乙女鉱山(乙女坂)はタングステン鉱石(重石鉱)の採掘で賑わい、最盛期には千数百人の坑夫が集まっていたという(「水晶宝飾史」による、大げさとも思われるが)。黒平にも坑夫が大勢住んだ。鉱山の名の由来は、谷底の坑口から崖の上の運搬道まで重たい重石鉱を運び上げるのが若い女性(乙女)の仕事となっていたから、というお話が伝えられているが(「楽しい鉱物学」水晶のとれる村)、実際は重石鉱を掘る以前から字乙女坂に区画された土地で、もとは地名に由来するヤマの名を後の人が面白哀しく付会したのだろう。(補記3)

ライン鉱の産地としては、ほかにアメリカ、コネチカット州のトランブルやアフリカ中央部のタングステン・ベルトが挙げられる。特にルワンダでは、写真のような標本があちこちで出るらしい。表面を被う淡黄色のパウダーは、重石華 tungstite(酸化タングステン)。 cf.No.814 加水重石華
ルワンダに隣接するウガンダ南部のキゲジ地方には英国植民地時代に遡る歴史的なタングステン鉱山があり、20cmに達する八面体形状のライン鉱が記録されている。
中国湖南省の揺崗仙鉱は巨大なタングステン鉱山で、数十センチ大に達する鉄重石結晶を産する(この産地の「鉄マンガン重石」はほぼすべて鉄成分が優越した鉄重石)。やはり「灰重石後の鉄重石」を出すらしい。
ペルーのアンカッシュ地方フアラポン鉱山では「灰重石後のマンガン重石」が出た。

補記:ちなみに日本ではライン鉱のほかに、三ノ岳鉱 Trimontite と呼ばれる新鉱物が報告されたことがあった。福岡県三ノ岳(さんのたけ)産の黒色タングステン鉱物で、1885年のことである。Trimont は三ノ岳の意(Tri=3つの、Mont =mouitain 山)。後に表面が鉄重石化した灰重石とされた。命名した岩佐巌はこれに先立つ 1877年に、大分県鷲谷産の紫色、緑色の鉱物をそれぞれブンゴナイト(豊後石)、ジャパナイト(日本石)として発表していたが、これらは後に菫泥石灰クロムざくろ石とされている。cf. No.892 補記3

「鉱物採集の旅 九州北部編」(1975)は、三ノ岳を紹介して、「遠く奈良時代から銅をとって鏡や仏像に使い、ふもとの地名も採銅所です。明治のはじめの鉱物学者たちはここを訪れて多くの種類を明らかにしました…」と述べている。地質は、山々の上半部に石灰岩がのり、下半部にあとから貫入したマグマの岩石(花崗閃緑岩)があって、上の石灰岩を再結晶させるとともに接触交代作用を行った、という。
2cm以下の灰重石の結晶が見られ、「今採れるのは白色〜淡褐色のふつうの灰重石ですが、かつては黒色の結晶があって『黒い重い石』とよばれ、ライン鉱であろうとか、タングステンの含有量の違う新鉱物(三ノ岳鉱)であろうとか、話題をまいた鉱物です。タングステンがまだ利用されないときはまったくのじゃま者で、銅を採る際に溶けないのでこわして捨てたそうです。」などと往時をしのんでいる。
益富地学「日本の鉱物」(1994)に三ノ岳産の硫テルル蒼鉛鉱が紹介されている。

補記2:ライン鉱、あるいは黒重石(鉄重石)は、倉澤や乙女鉱山(荒川を挟んで指呼の間にある対岸)で水晶を掘る人たちの間ではつとに知られており、値打ちがないので捨てられていたという。この石が出るカマ(晶洞)はよい水晶(透明で無傷のもの)がないといい、また掘った水晶が重たくなるとして厄介視されていた。俗にトーロー仏(蟷螂仏?)と呼んだ。重くて持ち上がらないというのである。cf. No.813 マラヤ石 追記

甲府の水晶業者らの伝えによると、東山梨郡松里村産の雨宮利作という人が水晶を掘りに乙女坂に入ったついでに、この黒い鉱石を一緒に持ち帰り諸方に照会したが、タングステン鉱と分からない時期が数年間あったという。一部は神戸の外人に送り、一部は外国に鑑定を求めた。また一部は甲府の水晶細工店に置かせたが、店ではもてあまして土間に転がしておいた。
明治32年に甲府を訪れた地質調査所長の巨智部博士がある店でこれを見て思い当り、2,3ケを東京に持ち帰った、と神保博士は述べているが、甲府の談では、やはりタングステン鉱と分からず暫くして和田博士によって判明したとされている。
また百瀬康吉翁の回顧談(昭和 9年)では、巨智部博士に要請されて水晶の先端に黒い汚物のついた石を石油箱に2、3ケただ同然で買い込んで自宅に置いてあったところ、来訪した博士は「これこそ鋼鉄界に一大革命をもたらすライン鉱と断定して狂喜した」という話になっている。
貴重なタングステン鉱と知った雨宮氏は、採取して庭に放ってあった鉱石を集めて横浜の商会に売り 2,500円を稼いだ。明治32年に氏は甲府の水晶業者らと計って乙女鉱山(当時、鳳鉱山と呼んだ)での採掘経営に着手したが、政治家の手塚正次氏が百瀬氏や資本家の青柳氏らと共に介入、日本重石工業会社を設立して雨宮氏を重役/現場主任に加え、明治35年から宮本村乙女坂と西保村倉澤の双方で採掘を始めた。こうして乙女鉱山の全盛期が出現した。

神保博士の話に戻ると、巨智部博士が標本を見い出した年、同所の樋口博士が倉澤のトジイワ坑で20余個のライン鉱標本を採った。これを聞いた博士は同年の暮れに現地に赴き、トジイワ坑と、乙女坂のガンガン穴でもライン鉱を採集して、灰重石と共産する産状に気づいたのだった。
ガンガン穴は 32年以前に水晶を掘ったが、重石ばかりで良い水晶が出ず、「人皆失望せし所」だったという。当時の乙女坂は十数名の坑夫が住めるような小屋が掛かっていて、年中水晶採集者が入り込み、簡単な道具を使って小屋の傍らに穴を掘っていた。山の斜面はさながら蜂の巣で「塵外の趣あり」と博士は述べている。対岸の倉澤にも同様の小屋があり年中人が住んでいた。
この時ガンガン穴はわずかな掘り込みに過ぎなかったが、翌年7月から重石を探るようになり、明治34年春に博士が訪れた時には十分中に潜ることが出来て、重石鉱脈の厚さや走向を知れたという。
ついでに言えば、博士は自分が採集した標本を「神保のライン鉱」と呼んで、「フリッチェ氏のライン鉱」と区別する報告をし、篠本博士の論難を受けた。 巨智部博士が「ライン鉱は灰重石仮晶の鉄重石」として論争を収めた。cf. No.410

補記3:山梨県南巨摩郡の身延町あたりは江戸時代、幕府の御用材木を調達する山林で、村民の入山を禁じた御留山となっていた。甲斐国志(1814)は大城の御林山の記述に、「山中に駿州・三河・内日・蔭沢等へ越ゆる小径あり、乙女坂と云う、乙女は御留にて昔時往来を禁止せられし時の名あるべし」と述べている。乙女峠に番所が設けられ、村民に検番の夫役が課せられていたらしい。
今の牧丘町あたりの山林も御留山として同様の地名がついていたのかもしれない。

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