176.桜 石2 Cerasite (日本産)

 

 

ホルンフェルスの中に住む私は、菫青石から生まれました。

桜石 (菫青石ホルンフェルス)−京都府、亀岡市湯の花産

 

菅原道真公(845-903)は学問の神様といわれている。
平安前期の学者にして政治家。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士、蔵人頭などを歴任した。その後、右大臣まで登ったが、藤原時平の嫉みをうけ、讒訴によって九州筑紫大宰府に左遷された。2年後任地で没したが、時平への恨みから京の都に祟り、雷を落し雹を降らせ、さまざまな怪異をなしたとされる。恐るべき神様だ。

それはさておき、道真公といえば梅の木の故事が有名である。梅は春に先がけて咲く。南北朝時代の朝山梵灯の連歌書には「よろずの草木の先に花開くがゆえに花の兄と申すなり」とあり、「花の兄」とも呼ばれた。古くに中国から渡来したとされ、貴族たちが最も好んだ花だった。万葉集には118首詠まれている。
道真公は都を去る時、庭の梅に別れを惜しみ、「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな(春な忘れそ)」と詠った。うれしいとき、かなしいとき、感情が極まっても乱れず、淡々と歌に託してこらえるのは昔の和人の嗜みだった。
そんな彼が延喜元年(901年)正月、大宰府に向う船に乗って門司の青浜近くを通りかかった。折りしも梅林が満開である。公はしばしの休息をとろうと、浜に船を寄せた。と、梅の花がいっせいに舞い散った。あたかも公を慰めんとするかのよう。船人たちは皆その美しさに感じいった。青浜特産の珍石、梅花石は、そのときの花びらが地中に凝ったものだという(ちなみに中国にも梅花石と称する模様石がある)。
このほか、一夜にして京から大宰府にテレポートした飛び梅の故事もあって、道真と梅の木は、比翼の鳥、連理の枝といった間柄らしい(ちょっと違うか)。

さて、菅公には桜にまつわる伝説もある。

公の近臣に高田若狭之介正期(まさとき)という、稗田野の鹿谷(ろくや)出身の忠義者があった。大宰府左遷の折、正期は公が寵愛していた桜の木を形見に拝領し、故郷の稗田野に移し植えた。その年は見事な花が咲いたが、翌年の3月には葉ばかりで花が咲かない。正期は、もしや公の身に何かと、はるばる大宰府まで駆けつけた。忠節に感じた道真は、天拝山の土で自像を作って持たせた。正期は故郷に帰ると、独鈷抛山(とこなげやま)の麓に祠を建て、像を祀った。

それから300年経った。建久元年(1190年)、浄土宗・積善寺の住職、無極上人の夢枕にしばしば菅神が立った。上人は感得するところあって、かの祠を天神山の麓にある寺の境内に移した。かつて正期が桜を植えた場所である。すると「奇なるかな桜樹の精霊、樹下の巌に形を現す。これ全く神慮により、樹は枯れ朽ちつるが故に、岩石に花の紋を残し給うなり」(桜天満宮縁起書)、境内から桜の花の形をした石が産するようになったのだ。菅神を祀った祠は桜天満宮と名づけられた。
この寺の桜石は江戸時代の中頃から世に広まった。昭和の初めには、桜石を紙に包んだ厄除け、雷避けのお守りが参詣者に授けられていたという。

No.77では桜石と鬼と湯の花温泉との関わりを紹介したが、こちらは桜の木と菅公との因縁を伝えている。鉱物愛好家以外、この話を知る人はさらに少ない。
もっともこのお話も、寺社創生に付会した作り話ともいうけれど。

 

補記:桜石 Cerasite は風化によりピニ石化した斑晶菫青石で、母岩は粘板岩・泥板岩のような粘土質の岩石から接触変成して生じた黒色変成岩(ホルンフェルス)。菫青石は3連または6連双晶の外見をなし、これがピニ石化したために境界が明瞭となって、結晶横断面が六弁の桜の花のように見える。鉱物種としては絹雲母(セリサイト Cericite)と緑泥石質の混合物という。セリサイトと紛らわしいが、セラサイト Cerasite の名は Cerasus (サクラ属の名称)に因み、いわば桜石を国際名っぽくしたもの。
鉱物和名辞典(1959)によると、Cerasite の命名者は菊池安(やすし)、1888年のことという。翌年の「地学雑誌」に報文があり、英語の報文 On Cordierite as Contact Mineral (接触変成鉱物としての菫青石について)は 1890年に米国の専門誌に載った。その中で氏が渡良瀬川流域の沢入(そおり:足尾銅山の下流)で発見した菫青石の産状が亀岡産の有名な(しかし成因の分かっていなかった)桜石と類似していること、渡良瀬川産のものは新鮮な(無色透明)菫青石、その軽度風化物として緑色化したもの、さらに風化して失透繊維状集合体になったもの、雲母化したものがあることを指摘し、亀岡産桜石(雲母化またはピニ石化したもの)は風化の進んだ菫青石であろうと推測している(ピニ石化にはカリウム成分の付加も必要)。 そして紅柱石 Andalusite のうち十字模様のあるものを空晶石 Chiastolite と呼ぶのと同様、菫青石 Cordierite のうち桜石模様の分画構造を示すもの(及びその風化物)を桜石 Cerasite と呼ぶことを提唱した。
(※ 益富「原色岩石図鑑」によると、菫青石のピニ石化は風化でなく、晶出末期に起こった鉱化作用で緑泥石と雲母がほぼ等分に混じりあった混合物に置換して仮晶をなすもの。亀岡にはピニ石から風化してすっかり雲母化したものもある。)

なお「桜石」と称する銘石は、この種の石に限らず日本各地にさまざまなものがあるが、京都府和束のホルンフェルスでは有名な紅柱石に加えて、渡良瀬川産に似た模様のピニ雲母桜石が出ている。成分的に紅柱石と菫青石が共に出るのは珍しい。母岩は(ホルンフェルス化していない)雲母粘板岩のものもあり、菫青石のC軸は層理に平行に並んでいる。
大阪府柏原市には黒雲母片麻岩中に長石の桜石が出るが、ホルンフェルス中に晶出した菫青石がさらなる高温化によって長石に変化したもの。母岩はホルンフェルスから花崗岩化(片麻岩化)したと考えられる。
京都の大文字山(如意ケ岳)北麓に出る桜石には未だ変質していない暗灰〜灰白色の菫青石が見られる。暗いホルンフェルスを宵闇に喩えて、褪めた色の花びらを「夜桜石どすな」と仰った女性があるそうな。

結晶図はセカニナ石(No.469)参照。
桜石は擬六方晶の分画形状がよく表れた例といえるが、六方晶系のベリルで同様の構造を示すものは愛好家間で一般にトラピッチェと呼ばれている。

※ホルンフェルス Hornfels はドイツ語の Horn(角)と Felsen(崖・岩石)からきて、硬い岩石の意とされる。最初にブロンニャールが(1827)、あるいはその前にウェルナーが用いたらしい。

補記2:分画菫青石-桜石の成因については、1980年代に大文字山産のもので光学的な観察が報告されて、高温安定形態のインド石 Indialite から低温安定形態の菫青石へ変化したと解釈出来る分画部のあることが指摘された。
六方晶系のインド石 Mg2Al4Si5O18 (2MgO・2Al2O3・5SiO2)は珪酸フレーム中で珪素を置換するアルミ原子の配置がランダムだが、菫青石では特定のサイトを占め、対称性が下がって直方晶系(擬似六方晶)となる。遷移温度は成分の変動にもよるが、大文字山のもので概ね 700℃という。

この説によると、桜石は単結晶でなく、複数(7つ)の結晶が一つの全体構造を共有して成長したものとみられる。今、桜石の横断面を中心核をなす六角形状の部分(1ケ)と、核を取り巻く6つの花びら部分とに分けると、中心核の部分は全体の(一つの成長単位としての)六角柱状結晶のうち、両頭部及び一方の頭部の角と反対側の頭部の対称位置にある角とを結ぶ辺で規定される砂時計構造の六角錐領域を占める。この部分はインド石の構造を保った単結晶として成長し、その後、菫青石構造に変化した。変化によって光学特性の均質性は失われ多様化(セクター化)している。
一方、全体結晶の柱面をなす花びら部分は、それぞれ光学特性が一様で、6つの独立した結晶が同時的に成長したものと解釈できる。つまり最初から菫青石として生じたと考えられる。これらは核となったインド石の周りにエピタキシャルに成長したらしい。(逆に言うと頭面〜中核部を形成する六角錐領域では、成長面の構造ミスマッチが大きいため、菫青石よりもインド石として成長する方が有利なエネルギー条件にあった。)
こうした状況が成立するのは結晶成長中に環境の温度-圧力がごく狭い範囲で変動した時に限定されると考えるべきだろうが、その限りで次のような成長階梯を踏んだと解釈できる。

@インド石構造が安定な高温環境で、ホルンフェルス中に核となるインド石が晶出した。
A環境温度がやや下がり、核結晶の柱面では菫青石がエピタキシャルに安定成長し、しかし頭面ではインド石が安定成長する状況が生じた。そして全体結晶(実際は7つの結晶の集合体)として成長した。
B成長が止まった後、環境温度がさらに下がってインド石部分が菫青石に変化した。
C菫青石が熱水などの作用を受けて風化し、(雲母や粘土に)変質していった。花びらの形が明瞭になっていった。

大文字山産桜石についての研究を、亀岡産桜石に敷衍してまとめた J.ラコバンらの英文報告が、米誌 Rock&Minerals 2006年夏号に載っている(ネット上で閲覧可)。本文はこれを参考に記した。
日本語ではつゆねこさんのまんが、「もっと!鉱物を楽しみたい7」の「桜石の物語」が詳しく、かつ分かりやすい。

cf.明治時代の有名鉱物 菫青石

補記3:梅は古来から中国で愛でられた花で、さまざまな含意を与えられてきたが、学問に関わる逸話では、南朝の東晋の哀帝(在位 361-365)が読書を始めると花が開き出すという故事があって、「好文木」(こうぶんぼく)と雅称された。読書家の道真が梅を愛したのもむべなるかな、である。
ちなみに万葉集に梅の歌が118首あるのに対して、桜を詠んだ歌は40首である。平安時代前期花といえば梅であったが、後期になると花は桜へと変わってゆく。

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