552.鉄水晶 Ferro-Quartz (スペイン産) |
No.551に「パワーストーン」という表現は「身も蓋もない」と書いたが、なぜそう思うのか、少しだけ言葉を足しておきたい。
私は石にパワーがあるかどうか、自分では分からないひとである。というか分かりたくないと思っているひとである。しかし石の気や力を感じるひとがいることは疑わない。石やクリスタルを使ってスピリチュアルなワークをするひとたちを見たことがある。なかには優れて瞑想的な空気を持っているひともいれば、よきヒーラーとしての力を発揮するひともあるように思
言い換えれば、石を使う、石が使えるということ、イコール、石にパワーがあるということ、ではないように思う。こういう感想は、もちろん鉱物愛好家一般の感想ではあるまい。
一方、石の霊力や薬効についての信仰(実践)が昔から存在していることは事実である。例えば私が好きな軟玉やトルコ石やラピスラズリなども、ひとに対してさまざまな影響力を及ぼすと語られた石だ。科学的な根拠があるかどうかは棚上げして(科学的に検討しようとするのは、これまた身も蓋もない)、私はそんな伝説を興味深く眺めて飽きない。こちらの感想は、あるいは鉱物愛好家一般にも許容範囲ではなかろうか。
で、「パワーストーン」だが、これはもう何でもアリの世界である、と私には思われる。上に書いた2つの(古い)世界を「パワーストーン」は呑み込んでいるが、はるかに超えている。一般的に言って、
・使い手の能力・資質は問われない。
・パワーを発揮する石に制約がない。あらゆる鉱物がその種に特有のパワーを持つと語られる。基本的に品質・形状を問わない。
・その効能は即物的現世的なものから抽象的霊的なものまで考えつく限りのニーズに対応しているように見える。
例えば、つい数年前に発見されたばかりの希産鉱物にも、ちゃんと人間意識の進化に対する社会的意義やら今になって登場した理由が定義されている。
・時に、ムーとかレムリアとかアカシックレコードとかヒマラヤの高次霊団とか地球外文明とか宇宙人とか、反論不能のオカルト知識、ニューエイジ文化を交えて語られる。
その徹底した網羅性とお手軽さ、ついでにいえば根拠のなさ(節操のない根拠)に、私はげんなりし、打ちのめされてしまうのだ。
直截で含みのない商業的霊性進化ツール。あっけらかんとした石との関わり方。無邪気でもあり幼稚でもあり難解でもある効用と謳い文句。…私の言葉は十分理を尽くしていないが、そういう議論を封じられるような、知性のブラックホール的なところが「身も蓋もない」のである。同じ感想を抱く鉱物愛好家は少なくないと思うが、いかがか。
気分を変えて。
標本はスペイン産の有名な赤色水晶。オレンジ色の石膏の母岩に埋もれて産出し、鉄分のために赤色を呈する。両頭付の単結晶を形成するものと、放射状に結晶が集合し頭部の連なりがコンペイトウのようなイガイガを形成するものとがある。
(特に後者からの連想と思われるが)「コンポステーラのヒヤシンス」という俗称があり、その由来はスペインにある聖地、サンチアゴ・デ・コンポステーラ(聖ヤコブの星の原)へ向かう巡礼が、お守りとして身につけたことによるという。
この地はローマ、エルサレムと並ぶキリスト教の三大巡礼地のひとつで、イエスの使徒だった聖ヤコブの墓の上に大聖堂が建てられたのが歴史の始まり。
聖ヤコブはエルサレムで殉教したが、遺骸はスペインのガリシア地方まで運ばれて埋葬されたとされ、9世紀のある隠者が天使のお告げを受け、ある司教と信者が星の光に導かれて同地に墓を発見したと伝説にいう。
サンチアゴへの巡礼は951年に最古の記録があり、最盛期を迎えた12世紀には年間50万人を集めたという。現在でも年間数万人がサンチアゴを訪れるそうで、巡礼者は巡礼の印としてホタテガイをぶら下げることになっている、と私はパウロ・コエーリョの本で知っていたが、鉄水晶を持って歩く人がいることは、標本商さんに説明されるまで知らなかった。
パワーストーン信仰とどう違うのかと問われると困ってしまうが…
cf. No.404 鉄水晶(イガイガ・タイプ)、No.416 空晶石
パワーストーン関連 No.265、338
イギリス自然史博物館の標本(コンポステーラ産
Eisenkeisel)
グラーツ ヨアネウムの標本
余談:量子物理学の泰斗ニールス・ボーア(1885-1962)の家の扉には、幸運を呼ぶお守りとして馬の蹄鉄が掛けられてあった。「あなたのような科学者が非科学的なオマジナイを信じるのですか?」と問われると、彼は笑って答えたものだという。「でも、効くらしいよ」
余談2:聖ヤコブを表すシンボルとして知名のアイテムに、ホタテ貝がある。1130年頃にはすでに、サンチアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の北側でホタテ貝の殻を記念品として売っていた。帰郷した巡礼者は外套の肩に貝殻を留めて、巡礼を済ませた者であることをアピールした。
ルネッサンス期になると、巡礼に出る時からすでに貝殻を持ち、あるいは肩に下げて旅をするようになった。貝殻を皿に水を飲み、料理を食べたのだ。聖ヤコブと同行二人である。
(ほたて貝のほか、つば広の帽子、大きな合羽、巡礼杖というスタイルが決まっていた。)
ある伝説によると、殉教した聖ヤコブの遺骸は石(大理石)の舟に乗せられて海に流され、ガリシア地方に漂着した。ちょうどその時、岸辺を馬に乗った騎士が通りかかったが、近づく舟に馬が怯えて暴れ、騎士は振り落とされて海に落ちた。しかし聖ヤコブの加護によって舟に這い上がることが出来て命びろいした。その時、騎士の服にはホタテガイが沢山貼りついていたという。
ホタテガイの殻を持つものは聖ヤコブに守られる、と考えられるようになった。ただこの伝説は
15-16世紀頃になって付会されたものらしい、と荒俣宏は書いている。殉教は西暦
44年頃のことと推測され、墓に埋葬された遺骸の頭部は
840年に発見されたという(813年とも)。
ホタテガイは今もスペインの、特にガリシア地方の標章に用いられている。
フランスではホタテ貝のことを一般にコキーユ・サンジャック(聖ヤコブの貝)と呼ぶ。学名ペクテン・マキシムス・ヤコベウス
pecten maximus jacobaeus
もまた聖ヤコブに因み、日本ではジェームズ・ホタテガイと訳される。
聖ヤコブの遺骸は発見された後(あるいはこの地まで運ばれた後)、墓に埋葬されたが、サラセン人の侵入以来、所在が分からなくなっていたという。 813年、ある野原の上に星がひとつ現れて、その導きによって野原の縁の洞窟にヤコブの墓が発見され、アストゥリアス王国の王アルフォンソ二世(792-842在位I)が、その上に教会を建てた。まわりに門前町が作られ、カンプス・ステラエ(星の野原)、約めてコンポステラと名づけられた。
977年に町はサラセン人に破壊されたが、すぐに再建されて、サンチアゴ・デ・コンポステーラと呼ばれるようになった。
聖ヤコブ崇敬の中心地となったのはこの頃からで、12世紀にトルコ軍の侵入によってエルサレムへの巡礼が難しくなると、西欧の信者たちはもっとも重要な巡礼地としてこの地に押し寄せた。
1589年、ドレーク提督のイギリス艦隊による略奪をおそれた町の司教が聖遺骸を隠すと、以後、巡礼者の数は減った。しかし、1879年に聖遺骸が再び発見されたので、また巡礼地として返り咲いた。今日、この地には修道院が36ケ所以上、教会が46、聳える尖塔の数は100以上あるという。
cf. ヘオミネロ2