22.煙水晶   Quartz (日本産)

 

 

私の名前?「けむりすいしょう」でも「くろすいしょう」でもいいよ。

煙水晶 −日本、苗木地方産

 

煙水晶を、私は「けむりずいしょう」と読む。でも、正しくは、「えんすいしょう」であるらしい。ある時、西洋のお城を日本人のガイドさんに案内してもらっていた。大広間のシャンデリアを指さして、「これはガラスではなく、ボヘミアから持ってきた、えんすいしょうという特別な石なのです。」とおっしゃられる。それはどんな石ですか、と聞くと、わかりませんが、虎の巻には(平仮名で)そう書いてあるんです、とおっしゃった。その時初めて、煙水晶の読み方に思い至ったのである。

写真の標本は、岐阜県の花崗岩採石場から出たもの。採集された方は、他人が採集していった後のガマ(晶洞−ポケット)から、底に詰まった粘土を削っていて、これを見つけたそうだ。高さ方向に 13センチくらいの大きさで、どうして立派なものだ。(1999.3)


追記:現時点でわたくしが認めなければならないことは、鉱物愛好家の世界で煙水晶を「えんすいしょう」と読む人はほとんど居らないということである。益富博士や藤原博士は「けむりすいしょう」派で、木下博士や近山博士は「けむりずいしょう」派である(ただ近山博士は茶水晶と呼ぶほうが一般的だとしている)。新村博士の広辞苑は「けむりずいしょう」としている(ちなみに煙は古く「けぶり」と訓んで、訛って「けむり」になった。この場合、「けぶりずいしょう」と濁るのが発音的に楽で、本調ではないかと思う)。黒水晶の語でまとめる人もある。
考えてみると、水晶の頭に色などの形容詞を付けた場合は「ずいしょう」と濁るのが馴染む。茶水晶(ちゃずいしょう)、黒水晶(くろずいしょう)、紅水晶(べにずいしょう)、紫水晶(むらさきずいしょう)、黄水晶(きずいしょう)-これは黄水仙をきずいせんと発音するのに並ぶ、白水晶(しろずいしょう)、草水晶(くさずいしょう)、苺水晶(いちごずいしょう)といった具合。

一方、ドイツとの国境に近いチェコのボヘミア地方、ホルニ・スラブコフ(シュラッゲンヴァルト)にはグライゼンの大鉱床があって、中世期から錫の鉱山が開かれていた(cf.No.815)。伴って水晶(煙水晶も)やトパーズ、蛍石やタングステン鉱物が採れた。この地方では 1991年までにすべての錫・タングステン鉱山が閉山を迎えたが、近世、ノイシュバンシュタイン城の室内装飾に、ボヘミア産の煙水晶が使用されたというのは、ありそうなお話である。ああ、それにしてもあの時のガイドさんは愛らしかった。(2016.12)

思いがけず再びかのお城を見物する機会が出来て、今度は英語のガイドを聞いた。そして改めてシャンデリアを見てみれば、それはどうやら「ボヘミアン・ガラス」なのに違いなかった。つまりは水晶(ロック・クリスタル)でなく、ボヘミアン・クリスタルなのである。ああ、尻すぼみ。(2017.7)

と、これで話が終わってしまっては面白くないのだが、ヨーロッパには水晶細工というものがちゃんとあって、古くは 13世紀頃ベネチアで水晶を削って器物を作成していたといい、17世紀にはミラノに著名な水晶工芸師があった。ドレスデン宮廷の宝物蔵には当時の水晶細工が多数保管されてある。それを見ると、水晶のシャンデリアがあっても少しも不思議でないようにも思われる。 cf. No.145 ベネチアのガラス  No.426 アヴェンチュリン(ムラノ島のガラス器)  (2019.5)

で、勉強をしてみれば、水晶(ロック・クリスタル)を使った細工はイスラム文化圏に古くからあり、特にファーティマ朝期(909-1171)の細工師のカット技術はきわめて洗練されていたという。ヨーロッパの古い聖遺物箱などには彼らが製作した器物から流用したものが多数みられる。十字軍遠征の収奪物であったらしい。ベネチアのガラス細工や水晶などの貴石細工技術も源流はイスラム圏から(ビザンチン文化を経由して)伝わったのだ。
ボヘミアのガラス製造もまた歴史の古いもので、透明度の高い無色のガラスが作り出されたが、この種のガラスはそもそも水晶を模したものと考えられる。カット技術は秀逸で、17世紀頃から作られるようになった色被せ・切子細工は高く評価された。

一方フランスではガラス産業の勃興が遅れ、近代まで水晶を使った細工が主流をなした。少なくとも 17世紀頃に始まるフランス製のシャンデリア製作には水晶のカットが用いられ、後に美しい透明ガラスが利用可能になっても、高級品には依然水晶を使うことが好まれた。ベルサイユ宮殿(1682)のシャンデリアは水晶製で、類似したスタイルのシャンデリアがヨーロッパ中の宮廷や貴族邸を飾った。ちなみに水晶に匹敵する屈折率を持つ鉛ガラス(フリントガラス)が欧州で初めて作られたのは 1676年のイギリスで、1781年にはフランスでクリスタルガラスの工芸品が製造されるようになった。
19世紀に建造されたドイツのお城の調度品がガラス製であるか水晶製であるか、私は今のところガラス製(ボヘミアン・クリスタル)と考えているが、西の隣国では高級シャンデリアの神髄が水晶製にあったことも事実である。cf. No.979 水晶  (2022.9.2)

イタリアは 12-15世紀にかけて、(1453年にコンスタンチノープルが陥落するまでの 300年間)、東方との地中海貿易の担い手としてヨーロッパ経済の中心となっていた。ヴェネチア、ジェノバ、ピサなどの諸都市が繁栄した。cf.No.855 補記5
宝石類を含む東方の奢侈品が流れ込み、富裕な王侯貴顕に売られていった。ヴェネチアはガラス細工の工房で知られるが、宝石の加工業も盛んだった。ロック・クリスタル(水晶)・玉髄・めのう・サードニクスなどが彫刻・研磨されて、さまざまな宝飾品が作られた。なかで水晶は、その澄明な美しさから十字架やレリカリー(聖遺物入れ)などの宗教具に好適で、多数の製品が作られたことが現存する伝世品の数から推測出来る。もっとも当時の有様は具体的には分からない。
素材の水晶もどこから供給されたかはっきりしないが、アルプス地方産と想像することは決して突飛でない。アルプスの谷には古くから「水晶掘り」(スターラー、クリスタリア)を業とする人々があった。少なくとも 17世紀には宝飾用に水晶が掘られて地元の都市でカットされていたし、18世紀以降は博物学の流行を受けて標本用の結晶採集も盛んになった。 
プラハの聖ヴィート大聖堂には、14世紀頃ヴェネチアで製作されたと考えられる水晶製の十字架を収めた記録が残っている。有名なボヘミアン・ガラスはその源流をイタリアに負っているのか、あるいは素材の水晶はボヘミア産だったのか、そんなことを考え出すと興趣は尽きない。 cf. No.935 水晶

印刷術が発明された 15世紀以降の数世紀間、イタリアは出版文化の一大中心地でもあった。古いラテン語の文献から得た知識がさまざな書物に引用されて世に現れ、またイタリア語に翻訳して出版された。一般の宝石業者や富裕顧客層は、そうした宝石書や博物書によって商品知識を蓄えていった。
プリニウス「博物誌」のラテン語版は 1469年に出版されたが、一般に読まれ浸透したのは 1476年にランディーノがイタリア語訳を作ったおかげである。
プリニウス(AD23-79)は水晶について、「水晶も東方から輸入される。インド産のものが他のいずれよりも愛好されるから。」と述べて、東方渡りの箔のついた商品に人気が集まったことを指摘している。
「ヨーロッパではアルプス山脈に良質の水晶が出る。」「アルプスの岩の間では、水晶はたがいに近づけないところで人が綱によって宙吊りになって取らねばならないような場所にできるということである。」とアルプス産について言及する。
古代ローマ時代、すでに谷の人は命綱を頼りに宙空に身を支えて、懸崖の晶洞を探っていたのだろう。
ついでに言うと私が度々プリニウスを引用出来るのは、中野氏による日本語訳があるおかげだ。(2023.11.9)

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