579.ラピスラズリ Lapis Lazuli (USA産)

 

 

Lapis Lazuli ラピスラズリ

ラピスラズリ 
-USA、コロラド州ノースイタリアン山脈、アンダーソン・クアリー産
(実物はもうチョイ、青い)

Lapis Lazuli ラピスラズリ

Lapis Lazuli ラピスラズリ

ラピスラズリ(研磨石と原石スラブ) 
−USA、コロラド、アンダーソン・クアリー産
(ブルーリンクル鉱山)

Lapis Lazuli ラピスラズリ

ラピスラズリ (標本上部に白い方解石結晶) 
−イタリアン山脈、Taylor Park,Dorchester Dist, Gunnison Co., Co

 

ラピスラズリは産地が偏在する鉱物で、アフガニスタンのバダフシャンチリのオウバル、ロシアのバイカル地方を世界3大産地という。ではその後に続く産地はどこなのかというと、私たちの耳にはわずかな情報しか入ってこない。少なくともソ連邦時代にパミール高原に発見された鉱脈があって、ここでは現在小規模な商業採掘が行われている(No.371)。ミャンマーにはルビー鉱山からの産出が知られ、主に国内での需要をまかなっていた(No.459)。イタリアのベスビアス火山ではアウインなどと共に少量の産出がある(No.367)。米国には複数の産地があり(No.580)、少なくともカリフォルニア州、コロラド州ではかなりよいものが採集された。カナダではバフィン島に知られているが僻遠のためほとんど流通しない(No.804)。ほか未確認情報はいくつかあるが、未確認というほかない。

この夏、コロラド州にいく機会があった。ラブランドからエステスパークに向かう道沿いに、熱狂的な鉱物愛好家ご夫妻が営むロックショップがある。いい雰囲気のお店で石談が弾んだ。ひとしきりコロラド産の銘品が話題になったが、意外なことにラピスラズリが採れることはご存知でなく、私の方が教える立場になった(←えへん)。翌週デンバーの自然科学博物館に行くと、菱マンガン鉱やアクアマリンやアマゾナイトなどと共に地元産の立派なラピスラズリがいくつも展示してあり、アフガニスタン産に匹敵する品質を確認することが出来た。早速ご夫妻に報告に上がったことは言うまでもない。 cf. デンバー自然科学博物館

コロラドのラピスラズリは1939年に発見された。産地はクレステッド・ビュートに近い北イタリアン山脈である。ある悪天候の日、気難しい鉱夫−探鉱家として知られたカール・アンダソンは、北イタリアン山脈を一人で縦走していた。海抜12,700ft (3,871m) の峡谷。スター鉱山へ戻ろうとする道すがら、秋の冷たい風雨に悩まされた彼は退避場所を探していた。一説によれば、彼は酔っていた。それで馬から落ちた。また一説には、ただ強風を逃れるために谷底に向っていたという。
いずれにしても彼は谷に降り、そこで雨に濡れて美しい青色に見える石を目にしたのだった。
それから何年か後、ラピスラズリの噂に惹かれて北イタリアン山脈を跋渉したオーティス・ドージアはカール・アンダーソンを訪ね、その折に聞いた発見譚を鉱物誌に寄稿した(1944年)。
「小さな渓谷のもっとも上手のあたりで、カールは黄鉄鉱を含む結晶度の高い石灰岩(大理石)の塊を見つけた。これは普通にはない産状であった。彼は立ち止まり、石をよく見て、ハンマーで少し割りとった。ある面に暗い青色の小さなスポットがひとつあった。雨に濡れて、その青色が鮮やかだった。石をポケットにしまった。数日後、再びポケットの中の青い石が何なのか考えてみた。ルーペでよく観察して、ラピスラズリだと気づいて飛び上がった。すぐに渓谷に引き返し、その上方の山腹に登った。あたりに転がっている大きな礫石をいくつも次々に谷底に転げ落とした。青いぶちの入った石がどこから、あの場所に落ちていったのか調べるためだった。そうしてあたりをつけた地点にシャベルを入れた。上層の瓦礫を1mばかり掘ったところで、主脈が見つかった。脈を追ってゆくと山腹に沿って数百mの長さに延びていることが分かった。」
ラピスラズリ発見の報は米国中の鉱物愛好家たちに驚きをもって迎えられた。
「知られている限り、これはアメリカ初の宝石質のラピスラズリである。以来、何人もの権威がその素晴らしさを讃えている。スミソニアン博物館のホワイトモア氏は『その色は我々のコレクションを代表するほかのどの産地のラピスラズリにもひけをとらない』と語った」とオーティスは書いている。

カールはいくつかの鉱区を申請し、毎年夏になるとそのエリアを掘って石を掬い上げた。採集は約30年間続いた。何トンというラピスラズリが彼のものとなり、そしてほとんど市場に出なかった。コロラドのラピスラズリは売り物ではなかったのだ。カールが亡くなると息子のアンドルーが引き継いだ。アンドルはアコーディオンの演奏家だったそうだが、10年ほどの間、夏になるとコロラドに来てラピスラズリを掘った。つねに腰にピストルを携えていた彼は余所者が彼の土地に立ち入ることをまったく歓迎しなかった。
アンドルは晩年に心臓を病み、医療費捻出のために鉱区を手放さざるを得なくなった。オクラホマ州の石油会社が権利を買い取り、80年代、ブルーリンクル鉱山の名で商業採掘を行った。コロラドのラピスラズリが市場に出回ったのはその時代のことである。しかし業績は思うほど伸びず、やがて会社は事業から撤退する。ギャリー・クリストファーという人物(彼は短い間だがアンドルと一緒に石を掘ったことがあった)が鉱区を譲りうけ、1991年から数年の間、少量の採掘を行った。その後、鉱山は閉山され、現在まで新たな産出はない。
ちなみにコロラド州では、カールが最初の鉱床を発見してから33年後(1972年)、北イタリアン山脈に隣接する場所で第二の、小さな鉱脈が発見された。これらの青い石はセメント・クリーク谷に数百万年前に貫入した溶岩と地層の褶曲・転移による高温変成作用によって生まれたとみられている。

カールとアンドルが貯め込んだ多量のラピスラズリ原石はどうなったか。その行方は長い間知られなかったので、一般には失われたと考えられていた。ところが2003年頃になって、あるラピダリー商がオクラホマ州ツルサの倉庫に眠っていたストックを見つけ出し、これをそっくり手に入れたのである。彼はブルーリンクル時代に流通した石で製品を作っていたのだが、在庫が底を尽きかけたため、半ば伝説となっていた宝物を八方手を尽くして探しまわったのだ。なぜ原石がオクラホマにあったのか、私は詳しい経緯を知らないが、おそらくブルーリンクルのマネージャーを務めたポール・シュルツが、鉱区の権利と共に貯鉱を丸ごと買い取って会社の倉庫に収蔵していたのだろうと思う。

コロラド産のラピスラズリの品質について補足すると、上述のようにデンバーの博物館にはアフガニスタン産に匹敵する高品質の標本が納められている。これはブルーリンクルのオーナーとなったギャリーが、アンドルの時代に採集した逸品を寄贈したものだ。しかし、原石の多くはここに載せた標本のように、灰色の母岩の中に暗い青色のラピスラズリが入るレベルのものだった、と私は聞いている。上二つは数年前に再発見された原石ストックから。下の標本は1960年代にわずかに市場に出たものである。

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