657.燐灰石 Apatite (ポルトガル産)

 

 

Apatite アパタイト 

フッ素燐灰石 −ポルトガル、パナスケイラ産
(淡紫色に蛍光)

Siderite ps@ Apatite アパタイト後の菱鉄鉱仮晶

燐灰石後の菱鉄鉱 −ポルトガル、パナスケイラ産

 

17世紀は錬金術が最盛期を迎えた時代であると同時に、衰退に向かい始めた時代でもあった、と位置づけられている。
私の興味の対象に絡めていうと、暗闇に光る石ボローニャ石が発見されてガリレイら当時の科学者の間に熱い議論を巻き起こしたことで幕を開けた世紀であり、中葉を過ぎた 1670年前後には暗闇にいつまでも光るフォスファー(元素リン)が作り出され、またほぼ同じ頃、ボローニャ石に似たバルドウィン石が、そして蛍石クロロフェン/「ベルンの石」)の熱蛍光(燐光)が発見された世紀だった。(cf. 錬金術師のボローニャ石光をもたらすモノまたはリンの発見
その視点で見ると、17世紀は卑金属を金に変えるとやらいう捉え処のない物質の代わりに錬金術師たちが見い出した、光を放つ現実の新物質に彩られた時代であり、あたかもその光に導かれるかのように、錬金術によって鍛えられた実験者の手で化学が産声を上げた世紀だったと言えそうである。

近代化学の父と仰がれるイギリスのロバート・ボイル(1627-1691)は、著書「懐疑的な化学者」(1661)の中で自然現象の忠実な観察の必要を述べて化学を近代科学の一分野として発足させた人物である。今日に繋がる元素という概念を提起し、従来(似非)錬金術師たちが従ってきた、硫黄や水銀、塩などを基本とする3元素説、4元素説を排して、元素が多数存在することを信じた。以降、化学者たちは究極錬成物質に替えて、まずは数多くの新しい元素を発見する旅に出たのである。

そのボイルは、しかしもちろん錬金術師であった。イギリスでは金や銀を増量する錬金術はヘンリー4世(1367-1413)が制定した法によって禁止されていたのだが、王立協会の創設メンバーだった彼は法律の廃止に尽力して、晩年、1689年にその秋を迎えた。ボイルは1680年にリンの調製に成功し、その性質を研究していたが、あるいはひそかにリンから「賢者の石」が作り出せると考えていたのかもしれない。彼は基本物質である元素を構成する微粒子の存在を予想し、微粒子の組み合わせを変えることで金属の変成が可能になると信じたが、それが実現するのは20世紀のことである。

彼が研究した元素のリンは、それから150年近く実用の道が開けなかったが、19世紀に入って最初はマッチの原料として、すなわち光をもたらすモノとして、それから水溶性の化合物として農業肥料に用いられるようになる(cf.リンの利用(肥料として)。後者は食料の増産に威力を発揮し、産業革命を経て生活が格段に豊かになった社会の人口増加を支える画期的な化学製品となった。それは卑金属を金や銀に変えることはなかったが、大地を農耕に適した肥沃な土壌に変え、農作物の豊かな収穫をもたらした。そして直接間接に膨大な富を関係者にもたらした。その原料として重要な資源となった燐灰石は紫外線で美しいピンク色や黄色に蛍光(燐光)する。⇒燐灰石の蛍光

リンの歴史を辿ると、錬金術と化学は実はきわめて近しい間柄にあり、化学というのはまるで錬金術のように象徴と暗喩に満ちた学問であるように思われる。⇒cf. 肥沃な黒い土に蒔かれる石(ラピス)

 

補記1:ボイル自身は錬金術の師であったジョージ・スターキーとの共同研究で、賢者の石の生成に用いる「賢者の水銀」を生成できたと考えていた。また何度か金属が変成される場に立ち会ったと主張した(→No.659)。錬金術による金の製造を禁止する法律は当時すでに有名無実であったが、ボイルは金の製造を奨励すれば科学が進歩する、と理由をつけて撤廃運動を行った。

補記2: 13,14世紀のヨーロッパでは偽金造りや金の偽造が横行していたらしい。1317年にアビニョンの教皇ヨハネ12世は貨幣を偽造した錬金術師をフランスから追放する命を発した。数年後にはドミニコ会が錬金術を行った教会関係者を破門すると宣言した。イギリス(イングランド)では1403年に金属の倍化を禁止する法律が通った。
ウィリアム・モートンという人物は水銀、木炭、辰砂、緑青、硝石、アルカリ、硫酸銅、砒素などを調合して黒い塊を作り、錬金術作業を行うとエリクサが得られると言った。このエリクサを銅や青銅などの赤い金属にふりかけると金になり、白い金属にかけると銀になると主張したが、1419年にこの法律によって処罰された。
処罰は死刑と財産没収だった。

補記3:パナスケーリャはポルトガル中部、コインブラ東方約 50kmの鉱山地域で、世界有数の錫・タングステン鉱床として知られる。近代的な採掘が始まったのは 1885年以降だが、古代の採掘跡が残り、おそらく古代ローマ統治期に錫が掘られ、イスラム時代にも操業されていたと見られる。しかし 19世紀後半には付近に住む者がなかったという。地名はパナスコというカモガヤ属の多年草(オーチャード・グラス)に因む。その時分、「炭屋」と呼ばれる人々が定期的に訪れてパナスコの薮を刈り、燃やして炭を作って周辺地域で売っていた。そんな一人が非常に重たい黒い石を見つけて驚き、友人に見せた。友人はなにか値打ちのある鉱石かもしれないと思い、リスボンの大学の鉱物学者シルバ・ピントに問い合わせ、タングステン鉱であることが分かった。ほどなくシルバは周辺の広大な土地を購入して最初の鉱区を設定した。こうして現代に続く鉱山地域の開発が始まったのだった。1930-40年代には約5,000人の鉱夫が住み、ほぼ同数の補助作業者(主に女性・子供・老人)が周辺の村から働きに来ていた。その後は機械化が進んだ。景況はタングステンや錫の市価に影響されて変動するが、長く操業が継続している。

シルバはタングステン鉱を鉄マンガン重石と鑑別したが、主要タングステン鉱はほぼ鉄重石(鉄分90%)である。主要錫鉱は錫石。標本としては 20世紀の中頃以来、(フッ素)燐灰石を筆頭に硫砒鉄鉱、錫石、鉄重石、菱鉄鉱等が市場に流通している。1980年代が収穫期だったようだ。
燐灰石は六角短柱状の結晶が多いが、なかには10cm長さに達する長柱もある。色調はくすんだ淡い灰緑色が多く、緑味が濃いものや菫〜紫色ががったものがある。またインディコライト調の暗藍色のものもある。これらが帯状・輪帯状に交じってバイカラーをなす標本が人気。結晶形は単純な六角柱のようだが、仔細に見ると縁部に傾斜面を持つものが多い。
上の標本は昼光下では冴えない色合いだが、紫外線にあてると稜が明るく蛍光する。成分的に変化があるらしい。下の標本は燐灰石から成分交代して菱鉄鉱化したもの。銀色の硫砒鉄鉱を伴う。(2025.1.2)

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