756.トパーズ Topaz (ドイツ産) |
トパーズと錫のふるさと、シュネッケンシュタインはドイツの南東部、チェコとの国境に近い山岳地帯にある。カルルスバードから40キロほどの距離である。エルツ山地を擁するこの地方はほぼ全域にわたって花崗岩の地盤が浅所に横たわり、面積にして2割ほどで地表に露出しているという。至るところで見出されるペグマタイトやグライゼンにトパーズを産した。淡黄色のものがザディスドルフやニーダーペーベルに、そしてシュネッケンシュタインにはワイン・イエロー(酒黄色)のものが出た。トパーズのほかにも、錫、タングステン、鉛、亜鉛、ウランの鉱石、ホタル石、重晶石などを生じた鉱化帯が千ケ所以上報告されている。
シュネッケンシュタインとは字義上「かたつむりの石」の意である。ファルケンシュタインの南南東10キロにある、(今日)約24m高さの、空に向かって突き出した巨岩(残丘)がそう呼ばれている。地域の地盤をなした花崗岩マグマが地表に上ってきた地点に形成された岩栓の名残り、名の由来は不明だが、岩がかたつむりの殻に似ていると往古の人々が考えたのか、あるいは近くの Schoneck (シェーネック)村に由来するのだろうとみられている。
シュネッケンシュタイン(の岩)にトパーズが見出されたのが何時だったかはっきりしない。オーストリアの鉱山地質学者ボルン(1742-1791)によれば、1723年のこと、シュネーベルクの宝石鑑定人クリスチャン・リヒターはシュタッテングリュンの村に住む仕立て屋から、ある炭焼きが深い森の中で材木集めをしていて白や黄や緑色の(美しい)石の破片が突き出た岩を見つけたと聞いた。リヒターは自分でもその場所に行って岩を見てきたが、それ以上のことはなかったようである。
1727年の春、アウエルバッハの町の服地屋、クリスチャン・クラウトという人物が、土地所有者の了承を得て、シュネッケンシュタインで「あらゆる種類の金属・鉱物の結晶標本」の採集業を始めた。どうやら黄色の「トパーズ」が目当てであったらしい。ほどなくザクセン選帝侯アウグスト2世(鉄腕王:1670-1733)
が食指を伸ばして土地を買い取り、最上質の「トパーズ」は選帝侯の所有に帰するという条件で、改めて採掘継続を認めた。クラウトは鉱山をケーニヒスクローネ(王冠)と名づけ、採集したトパーズや水晶やを1ポンドあたり16グロッシェンで薬種屋に売った。薬種屋は上質の結晶から宝石をカット出来ると考えて、ボヘミアやベニスの宝石業者に転売した。こうして作られた宝石は「オリエンタル・トパーズ」の名で市場に出て、ザクセンにも高値で還流したという。
往古トパーズあるいはトパジウスとはカンラン石(及び緑色系のガーネット)を指した。カンラン石は色味によって、ペリドット(ペリドート)、オリビーン、クリソライトなどとも呼び慣わされたが、いずれにせよ緑味を含む石である。このうちクリソライトは緑気の薄い黄色石のことで(cf.No.140)、後に黄色宝石一般の名称ともなったが、その昔(11C頃まで)は黄色のトパーズを指した語と考えられている(cf. クンツ 宝石誌 大司教の胸当ての項参照)。つまり(緑色の)ペリドートと(黄色の)トパーズとは、後世に名称が入れ替わったのである。また18世紀当時はシトリンなどの黄色宝石一般がトパーズ(トパジウス)と呼ばれていたとみられる。(※ちなみに今日のオリエンタル・トパーズは、イエロー・サファイヤを指す)
いずれにせよ、ほどなくシュネッケンシュタインでは宝石の原石としてトパーズが採集されるようになった。この年の秋、クラウトは組合基金を設立し、主にドレスデン宮廷の人々が投資した。地域の探査が行われ、設定された鉱区は組合による開発に委ねられた。穿孔と爆破作業、槌とタガネによる着実な採掘、井戸から汲み上げた水を使っての洗浄、そうして手選別でトパーズが拾い出された。宝石質の石は100ケ中4〜5ケの割合であったという。最上質のものから「指輪石」、次いで「シャツのボタン石」、「留め具石」の3等級にランク付けされた。1738年には宝石質トパーズが32kg
得られたが、一方すでに勝手な採掘も抑えが利かなくなっていたようである。1739年には組合が利潤を上げることは難しくなり、彼らの事業は
1744年に終わった。
1751年と57年に一時的な採掘が行われ、その後 1759年から小規模な定常経営が再開されて
1796年まで続いた。しかし末期の10年ほどは売上が低迷し、採掘も奮わなかった。その頃にはブラジル産のトパーズ(や加熱黄水晶)が市場を席巻していた。1727年から1796年までにシュネッケンシュタインに産した(宝石)トパーズは150kg
と見積られている。この間に露頭岩は3分の2ほどの大きさになった。
1800年以降は選帝侯の許可により、ズリを浚って標本クラスのトパーズを採集したり、必要に応じて「岩」に発破をかける権利がフライベルク鉱山学校に与えられた。この仕来りは19世紀半ばまで続いた。(※1765年に設立された鉱山学校は、学生たちがそれそれに鉱物コレクションを持つことが向学の励みになるとの理念から、(学校自体のコレクション充実のためにも、また収入源としても)、設立初期から積極的に標本の交換・販売事業に携わった。19世紀半ばには押しも押されもしない欧州標本商の立場にあった。教授たちに支払う給料は、標本売買の収益と外国人学生から徴収する授業料とで賄うことが出来た。シュネッケンシュタインのトパーズ標本はある時代にはかなりよく売れたそうである。)
その後もトパーズの非公式な採集は続いた。1874年にフレンツェルは、「今日ではもう何も見つけられない」と書いたが、20世紀後半になっても小さな結晶ならなにがしか採集出来たのは事実で、標本は現在も市場に出回っている。シュネッケンシュタインの岩は 20世紀に入って保護施策が進められ、1938年に指定景勝物に登録された。しかしコレクターによる破壊が已まなかったため、1973年に保護エリアを拡大してフェンスが巡らされた。岩に上ることは認められており、頂部に観光客のための手すりが設けられている。
この地方のトパーズは古い層状片岩と花崗岩との接触帯に生じていた。花崗岩マグマが地表に向かって上昇した周囲の岩体は接触熱変成によって紅柱石-雲母-菫青石のホルンフェルス・スカルンと化し、斑状変晶を生じている。変成帯の幅は約2kmに及び、その周囲に破砕帯が分布する。残留マグマから分かれた揮発成分がこれら接触変成鉱物と反応して、紅柱石から電気石片岩を、長石からトパーズや水晶を生ぜしめたと考えられている(cf.No.195)。同時に花崗岩の辺縁部は気成作用によって変質され、錫石を含むグライゼンとなった。
画像の標本は粒状トパーズの粗い集合物で、水晶を伴う No.120とは趣を異にし、その隙間に錫石を噛んでいる。シュネッケンシュタインのトパーズは OH成分をほとんど持たないFタイプで、クロム、マンガン、コバルト、バナジウムを通常より多く含むことが知られている(とはいえ痕跡量程度、クロムは100ppm以下)。黄色〜酒黄色の呈色は結晶欠陥(カラーセンター)に拠るものと考えられている。(cf.No.757)
補記:「40年以上もまえチューリンゲンへやってきたとき(※1775年)、私はフライベルクの鉱山アカデミーにより、岩石に対する興味と鉱物熱がブームになっているのを見出した。私もその情熱にとらえられ、同じような努力をしている他の仲間たちとともに、これらの研究対象に最大の注意をはらうよう促された。」(ゲーテ「フォン・ホッフ氏の地質学研究書」 1823年 木村直司訳)
「フライベルクのアカデミーで学び、きわめて純粋な命名法と細目にわたる豊富な知識を持ち帰った例の若者は、大いに私の役に立っている。これこそ私に欠けているもので、私は一般に混乱をきわめる個々の鉱物体の名前を知らないだけではなく、それを特定の概念と結びつけることも出来ない。(付記。フライベルクのアカデミーはほんとうに賞賛にあたいする。)」(ゲーテ 1783年10月11日、メルク宛ての手紙より 木村直司訳)