896.自然蒼鉛 Native Bismuth (チェコ産) |
東ドイツとチェコ北西部との国境の山地は中世期にはまだ深い原生林の奥地で闇の森(ミクリディ)と呼ばれていたが、やがて錫や銀、銅などの金属鉱石が盛んに採掘されるようになって、
17世紀頃には鉱石山地(エルツ山地)の名が通った。
ドイツ側の北麓では 12世紀にフライベルクに銀が発見され、15-16世紀になるとシュネーベルク、マリーエンベルク、アンナベルクなどでも採掘が始まり、ザクセン鉱山町(群)が成立した。cf.
フライベルク TU4、 TU5(周辺地図)
チェコ側の南麓では 12世紀頃からクルプカ(グラウペン)で錫が採集され、14-15世紀にはチンワルドやアルテンベルクに錫鉱山が開かれた。cf.
No.815
また16世紀初には西のヨアヒムスタール(ヤヒーモフ)で銀の富鉱脈が見つかり、瞬くうちに一大鉱山町に発展した。この町の栄耀を目の当たりにして鉱山経営と鉱業技術とに関心を持ち、丹念な記録を残したのが医師の
G.アグリコラ(1494-1555)で、「ベルマヌス(あるいは金属についての対話)」(1530)に続く大著「デ・レ・メタリカ(金属について)」(1556)はその後 2世紀にわたって鉱山・冶金学のバイブルとされる。cf.No.635、ドイツの鉱山に棲む山鬼
鉱山技術に関する専門書は 16世紀初にすでにいくつかの冊子が現れていたが、熟練した職業家向けの要点メモないし備忘録であって、誰でも理解出来るものではなかった。アグリコラの書が高く評価されたのは、初学的な事柄から説き起こして広いジャンルの知識を不足なく示し、彼自身そうだったように、素人好事家でも鉱山世界の全体像を脳裏に思い描けたからだろう(※ラテン語で書かれており、(初版の)対象読者は限られていた。しかし、すぐにドイツ語、イタリア語版が出た)。
当時のヨーロッパでは、古来から知られた7つの金属:金・銀・銅・鉄・鉛・錫(・水銀)に加えて、砒素・アンチモン・ビスマスといった新しい金属(周期表VA族の半金属)が認識されていた。実際、これらの(半)金属はいずれもエルツ山地の鉱石に含まれており、鉱山業の隆盛と採鉱・冶金術の洗練とによって顕れるべくして顕れたといえる。
cf. No.655
今日なお鉱物愛好家の偏愛措く能わざるフライベルクやシュネーベルク産のルビー・シルバーは、砒素やアンチモンを含む血赤色の硫化銀鉱である。
エルツ山地の銀鉱石の中にはコバルトやニッケル、ウランを含むものもあった。
Bi-Co-Ni あるいは Ag-Bi-Co-Ni-U
鉱石と表記される類である。アンチモンやビスマスと違って純粋な形で産出しないこともあって金属質としては知られず、ただ銀や銅の精錬を妨げる鉱石、あるいは邪魔な物質として扱われていた。
アグリコラがコベルト(コボルト)と書いた鉱石は、銀のように見えるのに銀を抽出出来なかった。cf.
No.90。
また銅のように見えて銅を抽出出来ない鉱石があり、遅くとも17世紀末にはクッファーニッケル(Kupfernickel:ニックの銅)の名で知られた。cf.
No.89
ヨアヒムスタールの鉱山に大量に産し、役に立たないのでズリに捨てられていた黒い石は、18世紀中頃にはペッヒブレンド
(pechblende)、運のない雑鉱と呼ばれていたが、やがて新金属としてウランが抽出され、化合物が美しい黄色の着色剤になることが分かると、一転、儲かる鉱石となった。ペッヒブレンドには、ピッチ(タール)のような(黒い)雑鉱の意もあり、ピッチブレンド(pitchblende)とも呼ばれる(補記2)。和名に瀝青ウラン鉱といい、その主成分は酸化ウラン(閃ウラン鉱
Uraninite)である。ほかに鉛、鉄、ビスマス、アンチモン、トリウムを、またランタンやイットリウムといった希土類を含む。痕跡量のラジウムを含むことが発見され、20世紀初にはさらに貴重品となった。
この他、脈石鉱物として亜鉛鉱石(閃亜鉛鉱)が普通に見られたが、ザクセンではたいてい精錬の価値がないと考えられていた。アグリコラの頃、亜鉛は銅に浸潤させて真鍮を作る原料として知られており、ハルツ山地の麓の鉱山町ゴスラーでは、銀や鉛鉱石の精錬の際に気化して炉の壁面に付着した物質が「炉のカドミア」と呼ばれた。これを使うと良質の真鍮を作ることが出来たのだが、あまり世間に知られず、一般に中国から輸入した亜鉛が重用されたらしい。(補記4)
カドミアとは紀元前後のローマ時代に遡る言葉で、オーリカルクム(山の銅、あるいは金色の銅)、すなわち真鍮の製造に用いられる、キプロス島産の銅を含んだ(亜鉛)鉱石を指した。これと同様の性質を持つ物質が
16世紀にもその名で呼ばれたわけである。ちなみにローマ時代、カドミアを炉中で加熱して留出した銀色の金属亜鉛は偽銀と呼ばれた。
ゴスラーでは 15世紀頃から副産物として各種のヴィトリオール(礬類:金属の二次硫酸塩)を出荷して儲けていた。アグリコラが白色透明の氷柱状物質とした天然物は、今日、亜鉛の7水和硫酸塩として知られるゴスラー石(皓ばん)で、1570年頃から人工的に量産されるようになる。cf.
No.871
ザクセン地方はサッフル(ザッフェラ/ザッファー)、あるいはスマルトと呼ばれる着色料の生産地としても知られた。熔かしてガラスに混ぜると美しい青色(サフィール/サファイア)を呈することが名の由縁と考えられる。主成分は酸化コバルトで、「その製法が 15世紀末頃か16世紀初頃に発明されたことは確かである」とベックマンは述べている。遅くとも 1540-50年代には工場で生産されていた。銀鉱が乏しくなって長く経営の悪化していたシュネーベルクの鉱山は、 1550年に開発された新しいサッフル製造技術によって漸く息を吹き返し、大きな利益を上げるようになったという。その製法は秘密に属した。cf. No.351 サフロ鉱
サッフルの名が初めて文献に現れるのはイタリア人ビリングチオの「火工術」(1540)である(青色ガラスの項: zaffre or saphireum)。当時、コボルト、カドミア(カラミン)、ジンクなどと呼ばれた物質は、今日でいうコバルトや亜鉛、砒素、銅などの(混在)鉱石だったと比定されるが、「火工術」はサッフルの原料となる鉱石については述べていない。
アグリコラはサッフルの語を使っていないが、「デ・ナチュラ・フォッシリウム」(1546)でガラスを青く着色するこの種の物質に触れ、ビスマス(鉱石の鉱滓)に由来するものと説明した。この見方は後世に長く残ったが、エルツ山地の鉱石はコバルトとビスマスとが密に共存しており、ビスマスはすでに知名の物質だったから、無理もないことではあった。(cf.
No.655 付記)
ヨアヒムスタールでは 1570年にビスマス・コバルト鉱石が発見されて開発が始まったという。
17世紀の30年戦争(1618-1648)で町がすっかり荒廃した後も細々と採掘が続けられ、サッフルが作られた。
コバルト(のレグルス/金属質)をビスマスとは性質の異なる半金属として確認したのはスウェーデンの
G.ブラント(1694-1768)で、1730年代後半のことだった。ブラントは両者を区別する
6つの方法を示したが、「ビスマス鉱石にはほぼ常にコバルトが含まれており、ビスマス鉱石が青ガラスを生成することがあるのはそのためだ」と述べている。
「コボルト」鉱石の語源についてベックマンは、ボヘミア語で金属を意味するコウ
kow
に由来するとの説を紹介する一方、当時の鉱夫が信じていた鉱山に出没する迷惑な悪魔コバルスに由来したとの説が有力だと述べ、コバルスはギリシャ語のコバロス(厚かましい浮浪者)からの借用語だろうとしている。
「デ・レ・メタリカ」の英訳者フーバー夫妻は、ギリシャ語のコバロスを鉱山の意で、ドイツでは鉱山に棲む妖精を指すようになったとしている。「コボルト」には(砒素による)腐食性があり、手足を痛め衣服を損ねるため鉱夫に嫌がられた。銀は抽出出来ないし健康にも悪い、鉱山小人(精霊)の害意が固まったような悪魔的な物質なのだった。
「かつては、『神が鉱夫たちと彼らの労働とをコボルト(妖怪)や悪魔から守り給うように』という祈祷を礼拝式に取り入れる慣習があった」(ベックマン「西洋事物起原」)。
画像はヤヒーモフ産の金属鉱石で、自然ビスマスとして入手したもの。標本商さんの説明に、「輝きのある杉綾(ヘリンボーン)-樹枝状、及び塊状のビスマスが、硫化鉱の複合塊中に入ったもの。表面に未分析のピンク色の風化物がつく」とある。
破面にはビスマスらしい、へき開による条線の見られる小斑がいくつか散っている。樹枝状の部分は、条線の見える(やや黄色がかった)ビスマスらしき箇所もあるが、微かにピンク色を帯びた銀灰色の、コバルトを想わせる箇所もある。
産地の文献を調べてみると、サフロ鉱 (Co,Fe)As2、スクテルド鉱(スマルト鉱)
CoAs2-3
といったコバルト砒化物でもこの種の産状(自然銀を交代)が知られており、おそらくこれらとビスマスの混在物と考えられる。
表面の二次風化物は未分析とのことだが、母岩が硫化鉱であるなら礬類、亜鉛礬(ゴスラー石)の類で、コバルトを含むために淡い赤紫色に染まっているのだろうと思う。あるいはサフロ鉱のような砒化物を含む鉱石とすれば、砒華やコバルト華が混合した類とも考えられる。
MR誌 49-5
のシュネーベルク特集号を見ると、似た感じで生じる二次鉱物としてコバルトを含むケティヒ石(亜鉛の砒酸塩)の標本が紹介されている。さて、何でしょか。
補記1:ヤヒーモフは銀が発見された当初、単に谷(タール)と呼ばれたが、ほどなく聖ヨアヒムの名を冠して「聖ヨアヒムの谷」と改められ、約めてヨアヒムスタールで通った。エルツ山地一帯はドイツから鉱夫が押し寄せてドイツ(語)文化圏が形成された。長らくハンガリー=オーストリア帝国の版図(ドイツ系の言語圏)に含まれたが、チェコが独立を遂げるとチェコ語でヤヒーモフと呼ばれるようになった。
補記2:ピッチブレンドは、文献上にシュバルツ・ベック・エルツ Schwarz beck-erz (黒いベック鉱石: F.E.ブリュックマン 1727)、偽ガレナ(擬方鉛鉱) Pseudogalena、ピッチに似たジンクブレンド (J.G.ワレリウス 1747)などの名でも参照されている。ペッヒブレンド Pechblende はスウェーデンの A.クロンステットの書が初出(1758)。ドイツ語には複数の意味を持つ語が多いが、ペッヒ Pech もピッチ(タール)の意と、不運なの意とがあり、どちらが先とも知れない。
補記3:硫砒鉄鉱 Arsenopyrite はドイツの鉱夫に Mispickel と呼ばれた。古く Mispuckel といい、語源は不明とされているが、単純に訳せば「間違った斑点」である。鉱石中に斑状に散った銀灰色の塊を誤って銀鉱と判断し、精錬したけれども残念な結果に終わった、といったストーリーが思い浮かぶ。
補記4:唐代の中国では炉甘石(水亜鉛土)が真鍮の原料として知られていた。
崔肪の外丹本草に「銅一斤、炉甘石一斤を共に練れば鍮石(真鍮)一斤半を得る。これ即ち、石中から半分(※半斤分の亜鉛)が採り出されるためだろう」とあるそうだ。
追記:豊かな銀鉱脈がヨアヒムスタールに発見されて、最初の大がかりな採掘が始まったのは
1516年のことである。ほどなく貨幣の鋳造権が町に与えられ、1519年には銀貨(ヨアヒスムターラー:ヨアヒム谷貨)の発行が始まった。約めてターラーと呼ばれたこの銀貨は
400年間に渡って通用した。米貨単位ドルの語源でもある。
ビスマス・コバルト鉱やウラン鉱の産出も 16世紀からすでに知られたらしい。ピッチブレンド、ペッヒ・スタイン(悪運の石)等と呼ばれた黒いウラン鉱は、そこで銀の鉱脈が切れたことを示す、ありがたくもない岩石で、使い途がないので尾鉱(クズ鉱)として捨てられていた。
最盛期の町の人口は 18,200人(1534年)を数え、ボヘミア王国ではプラハに次ぐ大都市となった。
しかし 40年代に入ると銀鉱の品位低下・枯渇が始まり、新大陸からの銀の流入もあって急速に産量を落とす。(※
1493-1520年の間にアメリカ大陸で生産された銀の量は 151万1050トロイオンス(47トン)という。R.J.フォーブス。)
1570年にビスマス・コバルト鉱石が発見されて開発が行われたものの、17世紀初には住民は
4,000人を切り、30年戦争が始まって鉱山業はすっかり荒廃した。
およそ 500箇所あった鉱坑のうち、戦後に稼動されたのは 10坑に過ぎず、1665年の鉱夫数はわずか
23人だったという。彼らの仕事はコバルト鉱の採掘がほぼすべてだった。
19世紀に入る頃から人口は緩やかに回復し始める。クラップロートが新元素ウランを確認したのは
1789年である。ピッチブレンドから得られるウランの塩はガラス着色料として有望で、1843年に本格的にウラン鉱の採掘が始まると、町は第二次ブームを迎えた。ウランの需要は拡大し、銀採掘期の古いズリ石も資源として活用された。
19世紀末、フランスのキュリー夫妻がヨアヒムスタール産のピッチブレンドから強い放射能を持つラジウムを発見する。以降、ウラン抽出後の鉱滓もまたラジウム資源として再利用されるようになった。
20世紀初には鉱山の湧水に放射性を持つラドンが含まれることが分かり、リューマチに効くというので、世界初のラドン・スパ(温泉場)が開かれた。1912年にラジウム・パラスと名づけられた豪華なスパ・ホテルも建造された。近郷のカルロヴィ・バリと並んで、放射性泉水の温水浴や飲用を売り物にした保養施設が脚光を浴びた時代である。
1910年代、ヨアヒムスタールはラジウム市場を独占した。しかしその後は米国やベルギー領コンゴが競合し、各地にウラン鉱山が増えて、20-30年代になるとウラン産業はさほど旨みのある商売でなくなっていた。
ウラン鉱の採掘はその後も続けられた。二次大戦後はソビエト連邦の強い介入があり、採掘されたウラン鉱は全量が相場より低い対価でソ連邦に引き渡された。多数を占めたドイツ系住民は
1946年に追放され、代わってチェコ人が移ってきたが鉱山労働者数は不足した。強制労働所がいくつも設けられ、スターリン時代には多くの政治犯がソ連邦から送られてきた。
ヤヒーモフでのウラン採掘は 1964年で終わり、その後はただ湯治場のある歴史的な町として知られる。